【全文】「他者の十字架を背負う」マタイ16章21節~26節

みなさん、おはようございます。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もそれぞれの場所からですが共に礼拝をしましょう。今日私たちは10年前の3月11日に起きた東日本大震災の被災地を覚えて礼拝を持ちます。どうぞ心を合わせてこの時を持ちましょう。

10年前のあの日、皆さんはどこで何をしていたでしょうか。それぞれが、はっきりと思い出すことができるのではないでしょうか。私もはっきりと思い出します。電話が通じなかった事、大渋滞が起きた事、歩いて帰ったこと、津波をテレビで見た衝撃、原発が爆発する様子をはっきりと思い出すことができます。自分が体験したこと、自分が被災者になったことはきっと一生忘れないでしょう。自分が体験した痛みは、忘れずに、長く心に残るものです。

一方、私たちは他者の痛みはすぐに忘れてしまう者たちでしょう。被災地の今を知らない私たちです。福島の復旧工事は97%が終了したとのこと。福島の復旧工事は終わりつつあります。宮城県では去年の12月最後に残っていた仮設住宅が取り壊されました。少し生活は落ち着いてきたのでしょうか。岩手県では最後まで残っていた陸前高田市のかさ上げ工事が終わりつつあります。土地がかさ上げされ、街は津波に強くなりました。

しかし当然、失われ続けているものがあります。かさ上げされた土地になかなか住民は戻らないようです。例えば気仙沼市は防潮堤や、盛り土をして、津波対策などはできたものの、病院など医療機関が少なく、人口は震災前から45%になっています。土地の整備に時間がかかり、故郷を離れざるを得ない、別の場所で生活再建を始めざるをえない人々も多くいます。津波対策をすれば復興が終わるというわけではないということを知ります。

一方、住民が増えている場所もあるそうです。宮城県新地町の人口は震災前より24%増加したそうです。震災後に仙台市のベッドタウンとして開発され人気があるそうです。しかしここでは昔から住んでいた人と、移住者に溝があると聞きます。昔からの住民は多くのイベントを開催し交流しようしていますが、新しい住民は無理やりコミュニティーに取り込まれたくないと感じることがあるそうです。

震災からの復興は、ただ津波に強くなる、住宅ができる、人が戻る、集まるということだけでは解決にならないのだと知らされます。地域のコミュニティー、私たちは交わりと言いますが、それが失われた痛みは現在も続いています。それをもう一度新しい形で作り直してゆくことはまだまだ始まったばかりです。十年ちょっとでは解決できない問題はまだ多くあるのです。

そして原発の問題はほとんど進展がありません。それどころか2月13日にあった地震で福島第一原発の原子炉の亀裂部分が広がり、水位が30㎝も低下しています。原発についてはまた来週、お話をしようと思います。いずれにしても、被災地は見た目には、表面的には復興を遂げているように見えるでしょうし、実際にそうでしょう。しかし、見えない部分では多くの苦しみが続き、危険が伴い、生活の再建はまだまだこれからも続くという状況なのでしょう。

私たちは、今日もこの被災地を覚えて祈り、主に礼拝をささげる日曜日を持ちます。まだ痛みが続いていることを覚え続けてゆきたい、忘れないでいたいのです。自分の痛みは忘れないように、まだその痛みが続いている人を忘れないでいたいのです。そしてそのままにしないでいたい。私たちにできる祈りをささげてゆきたいのです。震災の痛みはまだ続いていることを覚え続けてゆきたいのです。

3月のテーマは受難としています。今日は、自分の十字架を背負うということについて考えてゆきたいと思います。自分の十字架を背負うとは、個人的な痛みや失敗を負い続けるということではなく、他者の痛みを知りつつ、他者の痛みを覚え続け、それに連帯をすることが、自分の十字架を背負うことなのだということを覚えてゆきたいと思います。今日も聖書に聞いてゆきたいのです。

 

 

今日の個所には24節「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。十字架を背負うとは、一般的には「長く我慢すること」を意味します。辞書には「耐えがたい苦難、重い負担、消えることのない罪などをいつまでも身に持ち続けること。使用例『裏切り者としての十字架を背負う』」とありました。

しかし私たちは「十字架を背負う」という言葉をそのような、我慢する、耐え忍ぶといった意味には使いません。それは痛い場所を我慢するとか、人を裏切ってしまったような失敗に負い目を感じ続けるということではありません。

自分の十字架を背負うとは、私たちにとってどんな意味を持つでしょうか。それは自分が痛むというよりも、イエス様の十字架の痛みを知るという体験でしょう。自分の十字架を背負うとは、イエス様が感じた、あの十字架の痛みを私も体験するということです。

ではイエス様の十字架の痛みとはどんな痛みでしょうか。無実の中で鞭うたれ、重い木を持たされる痛みです。しかし十字架の痛みとはその肉体的な痛みを意味するわけではありません。イエス様の受けた痛み、十字架、それは当時の宗教・政治の指導者たち、それに扇動された人々によって起こされたものです。

貧しい人、差別を受けている人、汚れていると言われてた人、ゆがんだ構造に搾り取られていく人、イエス様はその人々の為に歩んできました。あるいは干ばつなどの自然災害で生活基盤を失った人たちも含まれていたでしょう。その人々ためにイエス様歩まれました。

イエス様の十字架の痛みとは、それは小さくされた者のための痛みでした。他者のための痛みでした。貧しい人々のための痛みでした。イエス様は苦しむ人々をめぐり、働き、福音を伝えました。そして苦しむ人々が力をつけてゆく姿は、権力者たちには危険に思えました。現状の安定を揺るがす、危険なことに見えたのでした。だからこそイエス様を十字架に架けると決めたのでした。

イエス様が背負った十字架、それは共に苦痛を味わい、その理不尽に反対するという意味を持ちました。そのためにイエス様は十字架の痛みを背負ったのです。人々の苦しみが続くことに反対し、十字架を背負ったのです。それは他者のために背負った十字架でした。貧しく、小さくされた者たちのために背負った十字架だったのです。

イエス様の十字架を知るということ、それは他者の痛みを知ることと言えるでしょう。自分の十字架を背負うとは他者の痛みに連帯し、それを取り除こうとしてゆくことと言えるでしょう。

イエス様の十字架は、苦しみを共感し、それに反対をしたという出来事でした。そして、私たちが担う十字架もそれと同じ十字架です。苦しみに共感し、それに反対をする。それが私たちが十字架を背負うということです。

痛みに共感し、それを取り除こうとする、それが十字架です。イエス様の十字架と私たちの十字架はそのようにして結びついています。

自分の痛みを我慢するだけでは、自分の十字架を背負うことにはなりません。互いの痛みを知り続けなければ、自分の十字架を背負うことにならないのです。互いの痛みを知り、共感し、それに反対をしてゆかなければ自分の十字架を背負うということにはならないのです。

他者の痛みを共に感じてゆくこと、共にその苦しみに向かってゆくこと、それが自分の十字架を背負うということです。この苦痛がきっと希望に変わる、いっしょに変えてゆこうと信じ、共に働き、歩み続けることが自分の十字架を背負うことなのです。聖書には自分の十字架を背負うとありますが、他者の痛みを知り、共に働くことが自分の十字架を背負うということなのです。

 イエス様の苦難の予告を聞いたペテロは22節「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言います。「あなただけは生き残ってほしい」と願ったのです。しかし、イエス様は自分だけが生き残れば良いという声をサタンの声と言います。自分だけが生き残る道を選択しなかったのがイエス様です。自分だけが幸せになる道ではなく、人々の痛みを感じ、受け取ってゆくことを選んだのがイエス様です。

26節には「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」とあります。自分の命を失うとあります。自分の命を失う、それは人間性を失うということでしょう。自分だけが救われる道を選ぶとするならば、そこで人間性が失われます。全世界の豊かさ、便利さを手に入れても、もしあなたの人間性が失われたら、他者の痛みを見て見ぬふりをするなら、何の得になるのでしょうか。どんなもの、豊かさよりも、あなたの人間性、共感し、共に苦しみ、共に働くその人間性がなによりも大事だとイエス様は言っているのです。

自分だけが生き残る道、それこそが十字架を背負わない生き方、人間性を失う生き方と言えるでしょう。痛みを感じる人、貧しい人を見て見ぬふりをして、あれは終わった、あとは自分がいけないのだと正当化することが十字架を背負わない生き方でしょう。

私たちは東日本大震災から10年を迎えます。私たちは自分の十字架を背負って生きることができているでしょうか。他者の十字架を背負うことができているでしょうか。自分の十字架、それは被災地の痛みと伴い、生活の再建を具体的に祈り、働いてゆくことです。私たちが同じ人間として共に痛み、苦しみ、働いてゆくことが、十字架を背負うことです。それは全世界を手に入れることよりも大事なことです。それが自分の十字架を背負うことです。これからも私たちは被災地のために祈り、働きましょう。私たちの十字架を背負いましょう。お祈りをいたします。