【全文】「私たちが集まるのは、すばらしい」マタイ17章1節~13節

 みなさん、おはようございます。今日は本来ですと久しぶりに、会堂で集まっての礼拝の予定でした。しかし週報でもお伝えした通り、緊急事態宣言の延長に伴い、それぞれの場所での礼拝をもうしばらく続けることになりました。とても残念ですが、いい加減振り回されるのに疲れてきましたが、それぞれの場所から精一杯の礼拝をしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。きっと子どもたちも大きくなっています。

この期間、それぞれどのように過ごしておられるでしょうか。なんでもなるべく自宅で、少人数で、小さな声でと言われ、息苦しく過ごしています。何とか適応しつつ、楽しもうとしてきた私たちです。一人で何かをすることが増えたでしょうか。

最近は一人登山というのも増えているそうです。あるサイトを見ていたところ「一人登山のメリット」が書かれていました。こんなメリットがあるそうです。まず一人なら自分のペースで歩ける、話しながらの登山は楽しくても実は疲れる、一人なら好きなときに立ち止まれる、一人なら行きたい山だけに行きたいときに行ける、一人ならすぐに中止できる。そんなメリットが書いてありました。

記事を読んでいて、私はこのYouTubeでの礼拝に重なるような気がしました。YouTubeの礼拝は確かに自分のペースで礼拝できました。なにより自分の体調を心配せずに礼拝できます。体調がすぐれない時は少し休んでから見ることもできます。会堂に集まるのは楽しいですが、人と会話することは実は疲れるということも確かにあります。一人なら、トイレに行くとき、一時停止もできるかもしれません。あるいは他の教会の礼拝をすぐに見に行くことも可能です。話を聞いていて難しそうならすぐ停止するということもできるかもしれません。

そしてサイトにはもう一つの記事があり、「山を一人で昇るのは危険」という注意もありました。例えば一人登山はすべて自分の判断で行わなわなければならないので注意が必要とありました。もちろん二人以上いれば判断が正しいわけではありませんが。一人だと思わぬ判断ミスをする危険もあります。一番怖いのはけがや遭難です。けがをしてしまったら、とても心細さを感じるでしょう。誰が見知らぬ人に助けを求めなくてはならないかもしれません。また道を間違え、遭難してしまえば、行方不明になっても誰も気づかず助けてくれないかもしれません。

また、一人登山は上達するのに限界があるともありました。経験の豊富な人と一緒に教わりながら登山した方が、たしかに上達が早いでしょう。

一人登山は危険という記事を読んでいて、私はこれもYouTube礼拝と重なるような気がしました。一人だと、後でいつでも見れるから、後にしようという判断も働くでしょうか。先にあれこれ用事を済まそうとしてしまいます。いつでもできるということは、今しなければいけないという判断を狂わすことになるでしょう。

行方不明も大きな問題です。YouTubeの礼拝では私が参加していなくても、誰もそのことはわかりません。いつも集まれば「今日あの人いなかったね」「久しぶりにあの人に会えたね」という会話が自然に起こります。でもYouTube礼拝はそれをすることができません。

そして経験のある人と一緒の方がよいということは信仰でもまったく同じです。登山の心地よさ、注意は先輩方が一番詳しいのです。経験のある人と一緒に礼拝すると安心感があります。その背中を見ながら礼拝することは、とても私たちを励ますのです。高齢の教会員の方々は私たちの心の支えです。

もちろん今は、集うことができない時です。私たちはそれぞれの場所から礼拝をします。これには良い点も多くあります。でもできれば私はやはり皆さんと一緒に、集まって礼拝をしたいのです。礼拝は信仰は自分だけでは不安です。一人では行方不明になってしまいます。一人ではなく経験のある人と一緒に礼拝したいのです。

今日、特に私たちは集まることができず残念です。早く共に礼拝をできる日が来ることを祈ります。共に集って礼拝できる恵み、今日の個所から聞いてゆきましょう。そしてまた集えるように祈りましょう。

神様がまた教会に私たちを集めて下さる日を待ちましょう。礼拝は神様の招きです。神様はこの礼拝に、共に集う礼拝に必ずまた私たちを招いてくださいます。礼拝で私たちは共に神様のみ言葉を聞きます。そこからそれぞれの場所に派遣されてゆきます。そして、神様は派遣されたそれぞれの場所にも共にいて下さるお方です。今日もそのことを、聖書から頂いてゆきましょう。

今日の聖書個所を読みましょう。今日の話はイエス様と弟子とが一緒に山に登るという話です。マタイによる福音書で山はとても重要な要素です。マタイ福音書は重要な事を語る時、繰り返しそれが山の上だったと記録しています。特に山上の説教が有名でしょう。そしてイエス様はよく山に一人で登り、祈りました。一人登山です。イエス様にとって一人登山は大切な時でした。静かに自分のペースで祈ることができる大切な時でした。

しかし今日は一人登山ではありません。高い山に登ることに、弟子たちを招くイエス様の姿があります。みんなで一生懸命、力を合わせて山を登るのかと思うと、そうではありません。1節には「イエスはペテロ、それにヤコブとその兄弟を連れて」とあります。イエス様が連れてとあります。その山の山頂には、私たちが自分の力で登るのではありません。そこへはイエス様が連れていってくださるのです。イエス様が山頂へと招き導いてくださるのです。

礼拝も同じです。私たちは自分で礼拝をしている、また集えるようになったら教会へ行く、そう思うかもしれません。でもそうではありません。今日それぞれの場所の礼拝も、集うことができる日の礼拝も、そこへはイエス様が連れて来てくれくださるのです。

そして弟子たちは山頂でイエス様の本当の姿を初めて知ることになります。今まで一緒にいたイエス様が光り輝く姿を見るのです。

ペテロはその時言うのです「主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」。まったくそうです!今日こそ私たちがこの言葉に目を止める日があるでしょうか。イエス様によって、いっしょに礼拝に連れてこられ、その光を受けた弟子たちが発した言葉です。私がではなく「私たちが」とあります。「私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」主を集まって共に礼拝することがどれほど、素晴らしい事か、私たちは今日本当に知るのです。

ここに集えたことはなんとすばらしいことか。ペテロは言いました。私たちも、もし集えたらなんと素晴らしいことでしょう。

ペテロは仮小屋(幕屋・テント)を建てようとしました。それは神様にずっとそこにいてもらうための仮小屋でした。ずっとここにいて下さい、ずっとここに住んでくださいとペテロたちは願いました。しかしその幕屋は必要ありませんでした。神様はそこに留まる方ではないからです。神様は一部の人しか行けない場所で、光り輝くのではありません。私たちに触れて、高いところから地上に一緒に降りてきてくださるお方です。

そしてイエス様は何よりも私たちと共にその山を降りて下さるお方です。この物語は下山が大事です。イエス様は山を降りながら復活と十字架について弟子たちに語りかけています。受難節、」特に十字架と復活について、この山から降りながら話をされたということを覚えたいと思います。

山を降ったのは、イエス様は高い場所にずっとおられるお方ではない、私たちと共にいるのだという事を示しています。そして同時に、山を降るとは栄光から十字架への下り坂を意味しています。今日の山頂の栄光は苦しみの十字架へと変わってゆくのです。

イエス様は山頂から十字架に向かうことによって、栄光の姿だけではなく、苦しみ痛みを伴う場所に現れるのだということが示されています。イエス様は山を降りながらそのことを弟子に伝えています。

そして実際に山を降るとそうです。次の場面では、傷つき痛みを負った人々にまた出会いに出かけています。イエス様はこのように、共にいて下さるお方です。私たちを一緒に山頂へと、礼拝へと連れて行ってくださるお方です。しかし、そこに留まらないお方です。私たちと共に山を降り、地上を歩んでくださるお方です。病を負った人に向けて山を降りるお方です。十字架へと降りてゆかれるお方です。

神は人を礼拝に招き、人として地上に降り、苦しみ小さくされた人に向けて歩むお方だということがこの物語の中には詰められています。

私たちは今日もそれぞれの場所から礼拝をしています。早く集えることを願っています。共にイエス様から礼拝へと招かれ、共に山頂に連れてこられ、共にみ言葉を聞き、「私たち一緒にここにいるのは、すばらしいことです」!そう言える日を待ち望んでいます。

私たちは、共にイエス様に礼拝に招かれ、共に山を登ります。その山頂で礼拝し、私たちは主の言葉と出会いました。しかし私たちも神も、そこに留まりません。またそれぞれの場所へと派遣されてゆきます。

今日イエス様に招かれ、集える日を待ち望みましょう。「私たちが一緒にここにいるのは、すばらしいことです。」そう、主に礼拝をささげることができる日を祈りましょう。そしてイエス様は今週も私たちと共に歩んでくださいます。十字架という痛みの中におられる姿を示してくださいます。また礼拝に集えることを祈ります。今週もまた1週間の歩みをイエス様と共に歩みましょう。