『ふさわしくない人の晩餐』マタイによる福音書26章17節~30節

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である」

                     マタイによる福音書26章26節

 

 9月から「主の晩餐」をテーマとして宣教します。私たちはイエス様を「思い出す」ために主の晩餐式をしています。ではイエス様の何を思い出すのでしょうか?

最後の晩餐で特にイエス様は「これは私の体である」と言います。これは主の晩餐でも象徴的な言葉です。このパンはイエス様の体なのです。イエス様はそれをわざわざ裂いて、これは私の体と言っています。この体、このパンとは十字架で傷ついたイエス様の体を象徴するものです。引き裂かれた体を象徴します。杯も同じです。「これは私の血である」と言います。イエス様はこの後、十字架で血を流されます。この杯は十字架の上で流れる、イエス様の血を象徴するものなのです。

このように私たちの主の晩餐は、イエス様の十字架の体と血を象徴するものです。イエス様ご自身が、最後の食事、十字架を目前にした時、パンを自分の体、杯を自分の血として弟子たちに教えられ、共に食べるようにと言いました。それが最後の晩餐という出来事でした。それが私たちの主の晩餐につながってゆきます。

このパンと杯をイエス様の体、血としていただき、十字架を思い出すのです。その十字架とは神の子である方が、体を裂かれ、血を流す、神の子が痛みの中におられたという出来事です。この十字架の神こそ大きな希望です。十字架によって、神は苦しみのただなかにおられ、共に苦しみ、共に血を流してくださるお方だと示されているから希望なのです。私たちの主の晩餐はその神の愛、十字架の体と血を、食べるという儀式なのです。今日これを覚えましょう。

誰がこのパンを食べるのにふさわしいかということも大切な問いです。クリスチャンが特別な人だからこれを食べることができるというのは誤解です。この後裏切るユダさえもこのマタイの最後の晩餐には参加しています。ここでは弟子の弱さも示されています。従うつもりでいても、忘れてしまう弱さが示されています。イエス様の最後の晩餐、それは弟子の弱さのためでもありました。

あまりにもふさわしくない弟子がこの食事にあずかったのです。私たちは本当にふさわしくない者です。でもふさわしくない者だからこそ、この食事にあずかりましょう。主イエスの十字架の体と血を覚えましょう。十字架によって私たちは、神が痛みの中に共におられるということを知った、その神の愛を覚えて、ともに食べましょう。それを思い出し、忘れないように食べましょう。

今日の主の晩餐は言葉のみです。どなたも限定されずにこの式に参加します。私たち全員がふさわしくない者としていただきましょう。主イエスの十字架の体と血を覚えましょう。十字架によって私たちは、神が痛みの中に共におられるということを知った、その神の愛を覚えて、ともに主の晩餐にあずかりましょう。