【全文】『ふさわしくない人の晩餐』マタイによる福音書26章17節~30節

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である」

                     マタイによる福音書26章26節

 

 

 みなさん、おはようございます。一日一日の礼拝に集うことができること、感謝です。今日も共に礼拝をしましょう。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。

8月は礼拝というテーマで3回の宣教をしました。9月からは礼典「主の晩餐」を5回、10月の第一週まで、テーマとして宣教をしてゆきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

この1か月で、私たちの主の晩餐式の意味を、様々な角度から考えてゆきたいと思っています。今日、この後も私たちは主の晩餐式を持つわけですが、なぜこれを毎月繰り返しているのでしょうか?そう聞かれたら、みなさんは何と答えるでしょうか?何のためにしているのでしょうか?答えは一つではありません。1か月一緒に考えてゆきたいと思います。

初めての方のために、主の晩餐とはこのぶどうジュースとパンを食べる儀式です。まずは皆さんも知っているように、この儀式には魔法のような力があるわけではありません。食べたら急に何かできるようになったり、聖なる人間になったり、罪が消えて無くなったりするものでもありません。

私たちはイエス様を「思い出す」ために主の晩餐式をしています。主の晩餐式とはイエス様を思い出し、新たに生きる者とされる。そのための礼典です。

では「イエス様を思い出す」とは、いったいイエス様の何を思い出すのでしょうか?イエス様の歩みは誕生、十字架、復活、様々な歩みがありますが、その中でもイエス様はいろいろな食事をされたお方です。それはイエス様の宣教にとってとても大事なことでした。罪人と食事をしました、5000人の群衆との奇跡的な食事をしました、復活後も食事をしました。そして今日の箇所、最後の晩餐も大切な食事の場面です。

いろいろな食事がありますが、なかでも今日は特に、この最後の晩餐から主の晩餐を思い出し、考えてゆきたいと思います。

私たちの主の晩餐には様々な意味が込められているわけですが、最も有名なのは、今日の箇所、最後の晩餐に起因するものです。私たちはこのイエス様との最後の晩餐を記念して、この出来事を忘れないようにするために、主の晩餐式をしています。イエス様との最後の晩餐を忘れないこと、イエス様の十字架を忘れないために、私たちはこれを毎月繰り返しているのです。

今日の箇所、17節、イエス様は過越の食事を弟子たちとしていたとあります。過越の食事とは、旧約聖書・出エジプト記にさかのぼります。神様から導かれ、奴隷から解放される時、人々が急いでエジプトを脱出する時、イーストを入れてパンを膨らませている時間はありませんでした。急いで出発した時に、作ったのが種無しパンでしたクラッカーのようなものです。

神様がそのようにイスラエルの人々を救い出してくれた、そのことを忘れないために、毎年種無しのパンを食べる、それが除酵祭に行われる、過越の食事でした。今日の箇所はその過越の食事をイエス様と弟子が食べている場面です。

ちょうど今私たちも、種無しパンで主の晩餐をしています。発酵していないパンです。主の晩餐を種無しのカリカリパンでやるか、ふわふわのパンでやるかは教派や教会によって違います。どちらにするかは主の晩餐式で最後の晩餐をどれくらい重視するかによって選ばれます。

最後の晩餐で特にイエス様が言っているのは「これは私の体である」という言葉です。この言葉は主の晩餐でももっとも象徴的な言葉として使われています。このパンはイエス様の体なのです。それは食べると魔法の力が与えられるパンではありません。イエス様はそれをわざわざ裂いて、これは私の体と言っています。そうです。この体、このパンとは十字架で傷ついたイエス様の体を象徴するものです。引き裂かれた体を象徴します。

杯も同じです。「これは私の血である」と言います。これも十字架を象徴します。イエス様はこの後、十字架で血を流されます。この杯は十字架の上で流れる、イエス様の血を象徴するものなのです。

このように私たちの主の晩餐は、イエス様の十字架の体と血を象徴するものです。そしてイエス様ご自身が、最後の食事の時、十字架を目前にした時、パンを自分の体、杯を自分の血として弟子たちに教えられ、弟子たちに分け、共に食べるようにと言ったのです。それが最後の晩餐という出来事でした。

そして弟子たちはその後、その食事の真似事をするようになりました。ちょうどこどもたちのおままごとのように。イエス様の十字架を忘れないために、イエス様の約束を忘れないために、この食事会を繰り返すようになったのです。それが私たちの主の晩餐につながってゆきます。

私たちも同じです。大真面目に私たちは、小さなパンと杯で主の晩餐式を行います。そしてそれをイエス様の体、血としていただき、十字架を思い出すのです。その十字架とは神の子である方が、体を裂かれ、血を流す、神の子が痛みの中におられたという出来事です。そこでは魔法のように苦痛が消えることはありませんでした。神の子イエスは痛みながら、地上の生涯を終えてゆきました。

私たちにとって、この十字架の神こそ大きな希望です。十字架によって、神は苦しみのただなかにおられ、共に苦しみ、共に血を流してくださるお方だと示されているから希望なのです。

十字架によってそれが私たちによく示されました。十字架のイエスの体と血によって、神が私たちと共にいるということが具体的に示されたのです。これが神の愛です。私たちの主の晩餐はその神の愛、十字架の体と血を、食べるという儀式なのです。今日これを覚えましょう。

誰がこのパンを食べるのにふさわしいかということも大切な問いです。この最後の晩餐によるならば、このパンと杯を受け取ったのは、弟子たちです。そこにいる人が、誰でも食べたわけではありませんでした。イエス様に従った12人だけがパンと杯を受け取りました。この主の晩餐は誰でも食べてよいものではない、クリスチャンのみが受けるものだという理解はここからきています。

たしかにこの最後の晩餐は内輪の食事でした。他の5000人の食事のように、誰でもかれでも招かれているのではありません。弟子限定の食事です。弟子とイエス様との特別な関係の確認がこの食事で行われたのです。イエス様を知らないまま、食べると言うことは、最後の晩餐の趣旨には合わないのかもしれません。弟子に限定するというのはイエス様と弟子の関係を確認するためという理由でしょう。

もちろんあまり厳密に考えすぎると問題もあります。十二弟子は男だけだったということにもなりますし、この弟子たちはバプテスマを受けていません。

イエス様を知らないで食べるのではなく、その方の歩みと十字架を知って、それを食べて欲しい、それがこの教会の願いでしょう。ですからバプテスマを受けた方に限定にするのでしょう。知らないまま食べないで欲しいという願いです。十字架を知り、信じてから食べてほしいというのが教会の願いです。

20節から25節を見ると、クリスチャンが特別な人だからこれを食べることができるというのは誤解だとわかります。イエス様は弟子に裏切り者がでるということを伝えています。イエス様の十字架の愛が確認されるだけではなく、弟子たちは裏切る、失敗をするというということが語られています。

特別に選ばれた弟子が受けたのではありません。この後裏切るユダさえもこのマタイの最後の晩餐には参加しています。そしてこの後逃げた弟子、三度イエスなど知らないと言った弟子すらもこの最後の晩餐にはいます。

弟子は特別だからこの晩餐にあずかったのではありませんでした。ここではイエス様の愛が示されると同時に、弟子の弱さも示されています。従うつもりでいても、忘れてしまう弱さが示されています。

イエス様の最後の晩餐、それは弟子の弱さのためでもありました。主の晩餐を弟子に限定する意味はここにあるでしょう。弟子が特別なのではなく、弟子こそ弱い者だから、弟子に限定してそのパンと杯を与えたのです。

そして弟子はこの後すぐ忘れてしまいます。裏切ってしまいます。知っているのに、知らないと言ってしまうのです。弟子は弱い弟子です。特別などではなく、あまりにもふさわしくない弟子がこの食事にあずかったのです。

私たちは毎月の晩餐をバプテスマを受けた弟子たちのみで執り行います。限定する意味がそこにはあるのでしょう。それはバプテスマを受けた弟子が特別だからではありません。弟子はパンと杯を、あまりにふさわしくない弟子としていただきます。忘れたくないと思いながらも、次に忘れてしまうのは自分かもしれない、忘れてしまう者としてこの主の晩餐をいただきます。ふさわしくない者としてこの主の晩餐をいただくのです。

私たちは本当にふさわしくない者です。でもふさわしくない者だからこそ、この食事にあずかりましょう。毎月の主の晩餐の式文では「ふさわしくないままで食べることのないように、自分をよく確かめて」と読みます。ふさわしい方のみ食べて下さい、そのように言われて、誰が食べることができるでしょうか。食べることのできる人は今日ここに一人もいないでしょう。

今日の主の晩餐は言葉のみです。どなたも限定されずにこの式に参加します。私たち全員が、ふさわしくない者としていただきましょう。主イエスの十字架の体と血を覚えましょう。十字架によって私たちは、神が痛みの中に共におられるということを知った、その神の愛を覚えて、ともに食べましょう。それを思い出し、忘れないようにあずかりましょう。

そして今日共に礼拝にし、まだバプテスマを受けておられない方。ぜひバプテスマを受けこの群れに加わってください。このふさわしくない者、すぐに忘れてしまうけれども、何とかイエス様を忘れないように、小さなパンと杯をいただく、み言葉をいただく、この群れにどうぞバプテスマを受けて加わってください。イエス様はきっとそのように招いておられます。賛美の後、言葉による主の晩餐を持ちます。