『誰がいないか吟味する晩餐』Ⅰコリント11章17節~34節

 

だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章28節

 

「主の晩餐」をテーマとして宣教しています。コリントの人々は毎週日曜日の夕方に、少しずつ食べ物を持ち寄って、家で夕食会をしていました。それは誰でも加わることができる、垣根のない、にぎやかな食事会でした。イエス様の民族や身分や性を問わない食事が再現されていたのです。そしてその中で、主イエスを覚えて私たちの主の晩餐のように、パンを裂いたり、祈ったり、証しをしたり、賛美をしたりしたのです。この運動がキリスト教を広めてゆきました。

しかしキリスト教が広まってゆくと、お金持ちたちは先に食事会を始めてしまうようになりました。後から参加する貧しい人たちは余り物を食べるしかありませんでした。それは貧しい人への侮辱であり、差別でした。このように垣根のない食事会はうまくいかなくなってきたのです。

パウロはそのような食事の様子を聞いて、コリントの人々に手紙を書いています。本来、イエス様がいろいろな人と食事をしたこと、愛とお互いへの配慮が確認される食事の場所だったはずが、互いの間に愛がないことを確認する食事、侮辱と差別に満ちた食事になってしまったのです。仲間割れ、分裂を起こす食事会になってしまったのです。パウロは20節それでは一緒に集まっても、もうこれは主の晩餐にはならないと言います。主の晩餐において、みんながちゃんとそろっているかどうか、よく確かめて、互いに待って、食べなさいということです。誰かいない人がいないか、誰かの分が足りなくないか、誰かを忘れていないか、それをよく確かめて食べなさいということです。自分の事ばかり考えて、自分だけが食べればいい、そんな集まりになっていないか、それを確かめなさい、吟味しなさいということです。28節の確かめなさいは、コリント教会の集まり、共同体に向けて言ったことです。

ここで吟味されるのは、私自身の資格や適性ではなく、共同体です。この集まりが誰かを置いていったり、差別したりしていないか、そのことを主の晩餐で吟味しなさいとのパウロは言っているのです。

この後、残念ながら食事と主の晩餐というのは別々に行われるようになりました。それぞれの家で食事をし、教会に集まり、主の晩餐だけを教会でするようになりました。それが今の私たちの教会で行う主の晩餐につながっています。

私たちが主の晩餐の時に確かめることは何でしょうか。それは自己吟味だけではありません。共同体が誰かを置き去りにしていないかということです。共同体を吟味するということです。私たちの中には、誰かを置き去りにしてしまっているということがあるでしょう。つながれない人がいる、集えない人がいる、食べることのできない人がいる、そのことをよく吟味して、食べたいのです。一緒にまた集い、一緒に食べれることを願って、主の晩餐をしたいのです。