「群衆との奇跡の晩餐」マタイによる福音書24章29節~39節

群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。

マタイによる福音書15章32節

 

9月は「主の晩餐」をテーマにしています。今回が4回目です。14章の食事と今日の15章の食事の違いは29節~31節の、この奇跡の食事がどんな人と持たれたのかということの強調点にあります。そこには様々な障がいをもった人々がいたことが細かく記録されています。足、目、体、口、その他、いろいろな不自由や病を持った人がここにいたのです。当時はよく(今もそうですが)病気と罪が結び付けられました。この人々の中には、おそらく病や不自由を持つことで、それだけではなく社会の中からのけ者にされた人もいたでしょう。立場が弱く、小さくされた人々こそ、この4000人の中にはたくさんいたのです。

そしてそこに癒し奇跡が起きたのです。癒しの奇跡とはどのような出来事でしょうか。私にはわかりません。本当に手足が自由に動くようになったということだったかもしれませんし、それとは違うことだったかもしれません。でもそこでは少なくともイエス・キリストによって差別のない言葉がかけられたはずです。そして人々はその言葉から生きる力をいただいたのです。差別に悩まされていた人々が、新しい希望を持つことができるようになったのです。

今日の食事はそのような障がいを持った人々、のけ者にされた人々がたくさんイエス様の下に集められ、そして癒されたという場面設定の後に始まります。イエス様は障がいをもった人々と一緒に食事をしたのです。

イエス様は彼らを見て32節「かわいそうだ」と言っています。元の言葉は「スプラグニゾマイ」という、内臓に由来する言葉です。相手の体の苦しみが、自分の体の苦しみに感じるということが、スプラグニゾマイです。イエス様は人々の痛みや空腹を自分の痛みや体のことのように感じたのです。そして足りないはずのパンで満腹するという奇跡が起きたのです。

36節の言い回しが出てきたら主の晩餐を連想してください。「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちにわたした」がまた今週も登場しました。ここでも主の晩餐が行われたのです。この病を癒された人々との奇跡の食事は主の晩餐だったのです。ここでの主の晩餐は、痛みを持った人々と共感しながらの食事だったということです。その痛みへの共感の食事こそ主の晩餐だったのです。

私たちはこの主の晩餐にあずかることによって、イエス様に癒され、満たされ、イエス様のように生き、行動するようになるのです。それが主の晩餐の意味です。私たちの主の晩餐には、込められた意味がたくさんあります。十字架の体と血、共同体を吟味すること、復活を覚えること、そして今日のイエス様の奇跡と癒し、共感ということが含まれています。

来週いよいよ私たちは主の晩餐をいただきます。いままでと違った思いで、その主の晩餐をいただきたいのです。