【全文】「罪人が招かれた晩餐」マルコによる福音書2章13節~17節

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

マルコによる福音書1章17節

 みなさん、おはようございます。今日は本当に集うことができて感謝です。それぞれの顔を見て礼拝できることに感謝です。そして今日この場所に集うことができない方がおられることも覚え礼拝を献げましょう。

そして私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声が久しぶりに礼拝に響き、うれしい思いでいます。こどもたちと共に、声を聞きながら礼拝をしてゆきましょう。

9月は主の晩餐をテーマとして宣教をしてきました。本日の10月第一主日でこのテーマを終えようと思います。私たちはいろいろな食事、主の晩餐を聖書から見てきました。主の晩餐とは十字架の体と血を記念して行われること、主の晩餐とは共同体を吟味するために行われること、主の晩餐はイエス様が復活したことを記念して行われること、主の晩餐は奇跡の食事を記念して行われることを見てきました。

どんなことをお感じになったでしょうか。せっかく一緒に礼拝をしていますから、久しぶりと声を掛け合いながら、そしてみ言葉からお互いが感じたかも分かち合えたらうれしいと思っています。

今日見たいのは罪人との晩餐です。この食事はあの言い回し「パンを取り、賛美の祈りを唱え、それを裂き、与えた」その言い回しは出てこないのですが、これもイエス様の食事の大事な一場面です。私はこれも主の晩餐の起源の一つだと思います。一緒に見てゆきましょう。

さて今日の場面では徴税人という人が登場します。徴税人とはもちろん税金を取りたてる人です。このレビはおそらく関所のような場所(収税所で)で通行税を取っていたと思われます。この通行税はいくらと決まっていたわけではないようです。王様は徴税人頭に、この関所から税金を集め、いくらいくら納めるようにと命令をします。徴税人はそこから、通行税をなるべくたくさんとって、命令された額を納めます。言われた額より多く集めることができれば自分たちの儲け、少なければ自腹で王様に払ったと言われます。ですから通行料いくらというルールは決めず、そこを通る人から取れるだけ取るという、さじ加減で通行税を払わせていました。徴税人とは王様と民衆の間の、中間搾取の仕事だったのです。このような職業はユダヤの人々から大変憎まれる存在、軽蔑をうける存在でした。

おそらく今日出てくるレビは中でも下っ端の徴税人です。現場で直接、人々から通行税を取り立てる仕事をしていたでしょう。徴税人の中でも一番人々から嫌われる存在だったでしょう。

15節には徴税人と並んで「罪人」という言葉も出てきます。徴税人と罪人は同じ扱いです。罪人とはどんな人でしょうか。何かの犯罪を犯した人、人を傷つけた人、もちろんそれも罪人です。しかし聖書の時代の罪人とは、もっと広い意味を持っていました。これは差別を含む言葉でした。たとえば羊飼いは罪人でした。移動しながらの生活は律法を守ることができなかったからです。他にも異邦人・外国人もみんな罪人でした。このように職業、住所、出身、宗教、国籍などによっても罪人とされたのです。従いたくても従えない人もたくさん含まれていました。

当時の社会では、「ふさわしくないとされた人」「罪人」との関わりが禁じられていました。特に食事の場面で厳しく禁じられました。徴税人や罪人と一緒に食事をすることは禁じられていたのです。16節の「どうして一緒に食事をするのか」という問いはそこから生まれています。

しかしイエス様の態度はどうでしょうか。徴税人や罪人と平気で食事をしています。しかもイエス様の方からレビに「私に従いなさい」と声をかけ、その後一緒に食事をしています。これがイエス様の態度です。イエス様の側から罪人と呼ばれる人をご自分の下へと招く、それがイエス様の招きなのです。

みんなで食事をするときに、一人だけ誘わない、食べれないのはかわいそうだから、例外として罪人も仲間に入れてあげたのではありません。イエス様はまず徴税人に「従いなさい」と言葉をかけ、招き、食卓を共にしたのです。この場面が大事です。かわいそうだから仲間にいれてあげたということではありません。この徴税人こそイエス様に「従いなさい」と招かれ、食事を共にしているのです。それはイエス様の一方的な招きをよく表している出来事です。その食事には罪人が招かれました。他の人は絶対に一緒に食事をしない人が、イエス様により一方的に招かれたのです。

私は食事の場面も想像します。当時も食事の際の席順は重要な意味を持ちました。さらに当時は身分差によって席順だけではなく、出てくる食事の内容も違ったそうです。入り口に近い方が下座で、身分が低い人は量や質の劣る食事をとりました。身分の高い人は部屋の奥に座り、良いものをたくさん食べました。本来であれば徴税人や罪人は入口のすぐ脇で肩身の狭い食事をしたでしょう。

しかしイエス様はどうだったでしょうか。私は想像します。イエス様の方こそきっと下座に座ったのではないでしょうか。イエス様が食事の際に奴隷の仕事である、弟子の足を洗ったという話を思い出します。あの時のように、イエス様は本来奴隷や低い身分の者がすること、いる場所に身を置いたのではないでしょうか。それがイエス様立ち方です。

この食事も同様に、徴税人や罪人が招待客としてイエス様に招かれたのではないでしょうか。そのような人々が隅に追いやられるのではなく、真ん中に座るように勧められ、もてなされたのではないでしょうか。イエス様の招き、イエス様との食事とはそのような逆転の食事です。

そう思うのは、17節の言葉からです。イエス様の来た目的がここに書かれています。イエス様は何のために来たのかが書かれています。聖書によればそれははっきりと「罪人を招くため」と書いてあります。そうイエス様が来たのは「罪人を招くため」です。イエス様は罪人こそを招くために来ました。罪人を食卓に招くために来ました。それがイエス様との食事、招きです。マルコによればイエス様は「罪人を悔い改めさせるため」に来たのではありません。「罪人を正しい人に変えさせるため」に来たのでもありません。イエス様はただ「罪人を招く」そのために来たと言うのです。

イエス様は正しいと言われる人ではなく、罪人といわれる人を招いたお方です。正しい人とは、ここに出てくる律法学者やファリサイ派です。律法を守り、神を第一とする熱心な人々です。彼らは罪人が招かれているのを見て、どう感じたでしょうか。

自分たちこそ一生懸命に信仰を守ろうとしてきたのに、罪人や徴税人が招かれているなんておかしいと感じたでしょう。正しい自分たちがまず食べるべきではないか。そのうえで例外として、徴税人や罪人も食事をすることを認めることがあるかもしれないけれど、でもまずは正しい者が招かれ食べるべきだと考えたでしょう。

イエス様の態度はそのような熱心な、正しい信仰を持つ人々を傷つけました。正しい人は優先順位が変わるイエス様の教えに傷ついたのです。でもイエス様はそのことにここではフォローをしていません。

イエス様は正しいといわれる人々を招かなかったのです。聖書にあるとおりイエス様は罪人を招くお方です。それがイエス様の食事でした。それがイエス様の招き、晩餐だったのです。17節にあるとおり「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とはそのような出来事でした。

これがイエス様と罪人の食事でした。この食事は私たちの主の晩餐とどのような関係にあるでしょうか。私はこの食事も主の晩餐の起源のひとつだと考えます。

イエス様は正しい者ではなく、罪人こそ食事に招いたお方です。だからこそ主の晩餐でもこの招きを思い出したいのです。正しい者ではなく、罪人がこの晩餐に招かれているということを思い出したいのです。

私たちはこの主の晩餐をクリスチャンに限定しています。クリスチャンに限定している理由がどこにあるのでしょうか。もし限定する理由があるのだとすれば、招かれている人と招かれていない人がいるということでしょう。何か招かれない理由があるのでしょうか。招かれる人と招かれない人がいるというのでしょうか。2つの立場がありそうです。

主の晩餐をいただく時、私たちは律法学者の側に立って、正しい者の側に立ってそれをいただくのでしょうか、あるいは徴税人や罪人の側に立ってそれをいただくでしょうか。どちらの自覚をもって、主の晩餐にあずかるでしょうか。

今日の箇所に照らすならば、非常に残念ですが、自分を正しいと思う人は晩餐に招かれていません。そして他者を罪人と指さしイエス様から遠ざけようとする人も非常に残念ですが、食事に招かれていません。

もし私たちが食べてよいのはクリスチャンのみと限定することに意味があるとするならば、それはきっとクリスチャンが「正しい人」だから食べてよいということではないでしょう。むしろ今日の箇所によれば、クリスチャンこそ自分が罪人だとよく知っているからこそ招かれている、そう言えるのではないでしょうか。

クリスチャンこそ自分が罪人であるにも関わらず、主イエスに招かれているということを知る者です。自分は神様の前に正しくない、従いたくても従えない者だとよく知る者です。でもそんな罪人だからこそこの主の晩餐に招かれているのです。クリスチャンこそ、あまりにその招きを受けるのにふさわしくない者として招かれているのではないでしょうか。そのようにして今日の主の晩餐を持ちたいのです。

このあと主の晩餐を持ちます。これまで今日を含め5回、主の晩餐について聖書を読んできました。主の晩餐は十字架の体と血を記念するものです。主の晩餐は共同体を吟味するものです。主の晩餐は復活を記念するものです。主の晩餐は奇跡の食事を記念するものです。そして主の晩餐は罪人が招かれた食事を記念するものです。今日この豊かな食事をともにいただきましょう。