「罪人が招かれた晩餐」マルコによる福音書2章13節~17節

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

マルコによる福音書1章17節

 

今日まで5回、主の晩餐をテーマとして宣教をしてきました。今日箇所、徴税人は関所で通行税を取り王様に納める、中間搾取の仕事でした。このような職業はユダヤの人々から大変憎まれ、軽蔑をうける存在でした。

15節には徴税人と並んで「罪人」という言葉も出てきます。徴税人と罪人は同じ扱いです。罪人とは犯罪を犯した人というだけでなく、もっと広い意味がありました。たとえば羊飼いや外国人も罪人でした。律法に従いたくても従えない人がたくさん含まれていました。

当時の社会では、「罪人」との関わり、特に共に食事することは厳しく禁じられました。16節の「どうして一緒に食事をするのか」という問いはそこから生まれています。しかしイエス様は徴税人や罪人と平気で食事をしています。しかもイエス様の方からレビに「私に従いなさい」と声をかけています。これがイエス様の態度です。イエス様の側から罪人と呼ばれる人をご自分の下へと招くのです

かわいそうだから、例外として罪人も仲間に入れてあげたのではありません。イエス様はまず徴税人に言葉をかけ、招き、食卓を共にしたのです。その食事には罪人が招かれました。他の人は絶対に一緒に食事をしない人が、イエス様により一方的に招かれたのです。

私は食事の場面も想像します。徴税人や罪人は招待客としてイエス様に招かれました。隅に追いやられるのではなく、真ん中に座るように勧められ、もてなされました。イエス様の招き、イエス様との食事とはそのような逆転の食事です。

17節にはイエス様の来た目的が書かれています。それは「罪人を招くため」です。マルコによればイエス様は「罪人を悔い改めさせるため」に来たのではありません。ただ「罪人を招く」ために来たのです。イエス様は罪人といわれる人を招き、正しいといわれる人々を招かなかったのです。

この食事は私たちの主の晩餐とどのような関係にあるでしょうか。イエス様は正しい者ではなく、罪人こそ食事に招いたお方です。今日の箇所に照らすならば、非常に残念ですが、自分を正しいと思う人は晩餐に招かれていません。そして他者を罪人と指さしイエス様から遠ざけようとする人も非常に残念ですが、食事に招かれていません。

そしてクリスチャンが「正しい人」だから食べてよいということではないでしょう。むしろ今日の箇所によれば、クリスチャンこそ自分が罪人だとよく知っているからこそ招かれていると言えるのではないでしょうか。クリスチャンこそ、あまりにその招きを受けるのにふさわしくない者として招かれているのではないでしょうか。今日この豊かな食事をともにいただきましょう。