「公害問題と教会」マタイによる福音書18章10~14節

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。マタイ18:10

 

公害問題と教会にどのような関係があるでしょうか?私は公害問題に関わることは教会の基本的な働きだと感じています。水俣病は1950年代から熊本県水俣市を中心に起きた公害問題です。工場排水に有機水銀が含まれ、それは魚、猫、人間の脳神経を壊し様々な症状を引き起こしました。そして水俣には激しい分断と差別が起きます。水俣の多くの人々が差別に苦しみ、声を上げることができませんでした。

原因企業であるチッソ株式会社は当時、日本を代表する化学メーカー、エリート企業でした。チッソは自分たちが原因と知りながらそれを隠蔽し、損失を最小限にしようとしました。被害を訴える声は大企業にかき消されてしまったのです。

教会とこの水俣病にどんな関係があるでしょうか?公害問題は犠牲がでても、安く便利なものを手に入れたいという人々の欲望が集まって生まれます。公害が差別をうむのではなく、もともと命の差別、軽視があるところに、公害が生まれるのです。誰かが犠牲になってよいという発想自体が公害を生むのです。

聖書どうでしょうか。聖書は1つの命が大事だ、小さな命が大事だと語っています。それが今日の99匹と1匹の羊の話です。羊飼いはたとえ1匹でもひたすら探します。羊飼いにとって1匹は100分の1ではありません。1匹のために時間と労力を使い、危険を冒して探しだすのです。

羊飼いは探しに出てゆくと、羊がいないかよく目を凝らします。声をかけ、耳を立てて声を聞こうとします。1匹だからと言って、見下されたりしない、軽んじられないのです。これは10節にあるとおり「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」という話です。軽んじるとは見下すという意味です。1匹の命を、99匹の命より下だと見下さないようにと語っています。

私たちはこの1匹の羊ですが、もう一つこの話が指し示すことがあるでしょう。それは私たちも羊飼いのようになるように促されているということです。私たちも1匹の命を探し、声を聞き、見つける者になるのだということです。

水俣の人々の命は、公害が始まる前から見下されていました。人々は声をあげることができませんでした。声を上げても無視され続けました。それはまるで探されなかった羊のようです。見つけられない、声をだせない、声を聞かれない羊のようでした。それは99匹のために、犠牲になろうとしている1匹のようです。

私は今日の物語から、そのような1人を探し出しなさいと聞こえます。私たち自身が苦しむ1匹を探し、目を止め、声を聞き、共に安心して暮らす場所を見つけるようにと促されているのです。

私たちは探されるだけではなく、探したいのです。忘れられてしまうような一人の命を見つけ、見つめ、声を聞きたいのです。その命を守り、小さな声に耳を傾けてゆきたいのです。その1匹を探し、声を聞くこと、それは本当に教会の大切な使命ではなでしょうか。