【全文】「クリスマスと終末の希望」マルコによる福音書13章24~37節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。

ご覧いただいてわかるとおり、今日からアドベントです。ろうそくをともしながら礼拝をします。今年のクリスマス礼拝は12月19日です。私たちは毎年第四日曜日をクリスマス礼拝、12月24日をクリスマスイブ、25日をクリスマス、イエス様の誕生日として祝っています。今年も12月25日クリスマスは必ずやってくるでしょう。

クリスマスは毎年12月25日に必ず来ます。しかし、もちろんイエス様誕生以前は、救い主が地上に生まれるということは、いつ起こるかわからないことでした。人々は何百年も救い主の誕生を待ち望んでいました。今日も生まれなかった、今年も生まれなかった、もうどれくらい待っているかわからない、いつ来るのかわからないということが何百年も続き、ようやく、そしてある日突然、イエス・キリストは地上に生まれたのです。

これは私たちの祝うクリスマスとは大きく違います。私たちが待ち望むのは、12月25日という明確に決められた日付、そこまでの1か月ほどです。毎年クリスマスは私たちに規則正しく訪れ、待つ期間は決まっています。それは私たちにとって決して突然の出来事ではありません。むしろ待っていなくても、あっという間に12月25日が来るでしょう。実は私たち、待たなくても、12月25日に自動的にクリスマスが来るのです。しかし、二千数百年前の人々にとっては、待たなければいけない期間も、またその日付もわかりませんでした。人々はいつ起こるかわからないということを、ただ待たなければなりませんでした。

私たちにとってのクリスマスは、「やがて」必ず来るものです。そしてそれは私たちにとっては2000年前に「すでに」来たものです。私たちのクリスマスは、「やがて」来るクリスマスであり「すでに」来たクリスマスです。私たちはこの二つ「すでに」と「やがて」を祝っています。

イエス様は2000年前から「すでに」私たちと共にいる、そしてまた「やがて」私たちに生まれて下さるその日が来る、それが私たちのクリスマスです。

キリスト教には、いろいろな事柄についてこの「すでに」と「やがて 」という視点で考えます 。例えば終末についてもそのように考えます。今日の箇所は終末についてイエス様が語っている箇所ですが、この終末も「すでに」と「やがて」で理解をします。その点で、クリスマスと終末は同じように、「すでに」あるものであり「やがて」来るものです。

私たちはクリスマスを待ち望むことを始めました。それと同時に私たちは終末も待ち望む。今日はそのことを覚えてゆきたいと思います。

今日の箇所を見ましょう。今日の箇所は世界の終わりについて、終末について語っている箇所です。私たちクリスチャンには世界には終わりがあるという考え方、終末思想という考え方があります。

この終末思想とは、イエス様が再び地上に現れる時に、世界が終わりを迎えるという考えです。しかしこの終末思想は時代によって、大きく考え方が変わってきました。特に中世ヨーロッパの終末の理解が一番有名でしょう。

中世では、終末の時、天変地異が起こって、クリスチャンは天国へ、ノンクリスチャンは地獄へ振り分けられると考えていました。そして地獄に落ちると永遠に罰を受け続けるのです。中世では盛んに明日にも終末が来て、みな地獄に落ちる、だから急いですぐに洗礼を受けなさい、滅びから救われなさいと、布教がされました。1000年前、終末はそのような出来事と考えられました。

もちろん現代でも終末を、人が天国と地獄に振り分けられる閻魔大王様のような出来事と理解する人はいますが、私はそのようには理解しません。この教会もそうでしょう。私たちの信仰告白にも11番「終末の希望」とあります。終末とは希望の時だと理解をしているのです。終末、それは決して恐怖の瞬間ではなく、希望の出来事なのです。

そうです、終末とはイエス様がもう一度地上に来られる、希望の出来事です。イエス様が来るという出来事の1回目はクリスマスに起こりました。そして2回目が終末の時です。2回目にイエス様が来られる時もクリスマスと同じです。それは希望の時となるはずです。

私たちはこの終末を恐怖の瞬間としてとらえるのではなく、クリスマスと同じように、希望としてとらえています。それはどんな希望でしょうか。それは神様が造られたこの世界が完成するという希望です。世界では神様がなさろうとしていることがあります。それはいまだ終わってはいません。しかし、それがすべて完成する時がきます。それが終末、希望の時です。この不完全な世界が、ゆがんだ世界が、イエス様がもう一度来る時に完全なものへと完成してゆく、それが終末の希望です。

そこではもちろん裁きも起こるでしょう。しかしその裁きはバプテスマの有無よって裁かれるのではないでしょう。神様はすべての人を集め、裁きます。27節に四方から人々を呼び集めるとは、あらゆる方角からという意味です。全世界のすべての人が裁きの対象となります。

神様の裁きとは、すべての人の不正や不正義を公にし、悪や罪を宣言することです。そしてすべてを正し、完成させ、満たし、回復させてくださるのです。それはシャロームと言えるでしょう。ゆがみのない世界、きれいな丸、シャロームにしてくださる、それが世界の完成、終末の時です。

不完全な世界に生きる私たち、どうしようもない絶望が覆っている世界に生きる私たちはそこに、希望を持つのです。どんなにこの世界が不完全で、どんなに私の人生に苦痛があっても、いつか必ず終わりが来る、いつか必ず完成する時が来る、希望の時が来るのです。それが私たちの終末の希望です。

本当につらいとき、不完全な世界に生きる時、完成と回復の時がいつ来るか、その日付を知りたいと願うでしょう。しかし32節その日付はイエス様さえも知らないことです。それはいつ来るかわからないのです。本当は終末の希望が何年何月何日に訪れると書いてあった方がよいでしょうか。

どうでしょうか。希望には日付を決めない方がよいのかもしれません。神様は、何月何日まで頑張ればいいという希望ではなく、息の長い希望を持ち続けるようにと促しているのでしょう。どんな時もあきらめないで生きるためです。日付の無い終末、希望こそが私たちを励ますのです。今ではないけど、いつかはわからないけど、でも「やがて」必ず来る、イエス様が来る、この世界が完成する時が来る、希望の時が来る、それを待ち望むのが私たちの終末の希望です。

どこか終末を待つということは、クリスマスを待ち望むことに似ているでしょう。終末も「やがて」必ず来るものです。私たちもいつ来るかわからないクリスマスを待った人々と同じ気持ちで終末を待ちましょう。それはいつ来るかわかりません。明日なのか、数百年後なのか。それはいつ来るかわからない出来事なのです。でもそれは、自分が天国と地獄のどっちに行くか決まる、恐怖の裁きの時ではありません。

神様がすべてを完成させる、希望の出来事、希望の時です。終末はクリスマスと同じように、私たちが待つ希望の時なのです。

 

私たちはそれをどのように待つでしょうか。32節から門番のたとえがあります。いつ帰ってくるかわからない、日付を決めない主人は門番に、仕事を割り当てて、責任を与えました。神様が門番に期待したことはなんでしょうか。神様から責任と役割を託された僕は、そこで互いに平和に、愛し合う役割を与えられて誠実に待つように求められたのです。

もう二度と来ないとあきらめず、いつまでも待つようにと言われたのです。そして主人の帰りを恐れるのではなく、それを希望の時として待ち望む門番として待つように求めたのです。私たちに目を覚ましていなさいと言ったのです。

35節「だから、目を覚ましていなさい」。それはしっかりとこの世界を、現実を見るようにということでしょう。世界の不正を不正義を見過ごさずに、自分の不正に目をつぶらないようにしなさいということです。そこで役割をしっかりと果たすということです。終末までそのように主に、そして託された世界に誠実に生きることが、門番と私たちに求められているのです。

終末を待つことはクリスマスを待つことに似ていると言いました。それはやがて必ず来るものだからです。そしてもうひとつ、終末とクリスマスの共通点があると言えるでしょう。それは「すでに」来ているという点です。

2000年前イエス様が来られたときから終末は時始まっているのです。「すでに」クリスマスが始まっているように、終末も「すでに」始まりつつあるのです。イエス様が私たちと共におられるということにおいてです。それがイエス様との2回目の出会いの始まりです。このように「すでに」始まっているのです。クリスマスも、終末も「やがて」だけではなく、「すでに」を含むのです。どちらもすでに起き始めています。

クリスマスと終末の共通点を見てきました。「すでに」と「やがて」という共通点を見てきました。私たちには苦しい人生の中でも必ず「やがて」来る希望があります。そして今「すでに」ある希望がきっとあるでしょう。「すでに」来ている希望に感謝をしましょう。そして「やがて」来るその希望を共に待ちましょう。お祈りいたします。