【全文】「差別を超える神」マルコによる福音書7章1~13節

 

こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。

また、これと同じようなことをたくさん行っている。マルコ7章13節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も元気なこどもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

さて、私たちはバプテストというグループの教会です。キリスト教の中でも自由や平等を大事にするグループです。バプテストという名前は、全身を水に沈めるという意味のバプティゾーという言葉から由来しています。洗礼の形式を全身で水に浸かる(全浸礼)形式であることから「バプテスト」と呼ばれています。私たちはこの形式に強いこだわりを持っています。全身を沈め、また出てくることから、死と復活を象徴する形式と理解しています。

ただし、私たちの教会では、この形式でなければ絶対だめということでもありません。病気や水が怖いなどの理由によって、頭に水を注ぐという形式で行う場合もあります。そして何より他の教会の形式で洗礼を受け、この教会に集っておられる方々もいます。その洗礼ももちろん私たちと同じ洗礼として考えています。

それよりも目を向けたいのはバプテスマにおいて誤解されやすいことです。それはバプテスマを受けることによって、自分が清められ、聖なる者になるという誤解です。バプテスマを受けても、聖人になるわけではありません。その後も悪いことをいっぱいします。またバプテスマを受ければ、これまでの罪・悪い行いがまさしく水に流されるように、無くなるということでもありません。

ではどんな意味があるのでしょうか。それは神様と一緒に生きるという意味です。神様を信じる者として生きてゆくという決心がバプテスマです。誤解されやすいのでもう一度言いますが、バプテスマを受けた人イコール、罪から解放され、他の人より清く、神様に近く、偉く、優秀で、真理を知っているというわけではありません。

バプテスマとは実に不思議な儀式です。私たちにはこのように、周りの人から見ると極めて不思議な形式とその中身を大切にしています。

水を使った様々な宗教的な儀式というのは世界中にあります。日本の神社には手水や禊といった習慣もあります。ヒンドゥー教にも沐浴という習慣があります。それぞれ神様の前で、身を清めるという意味があるでしょう。水に対する私たちの理解とは違いますが、神様の前に襟を正すということ、神様にしっかり向き合うという姿勢は、キリスト教とも共通する姿勢だと思います。それを形式主義だとは思いません。

一方で、どの宗教を信仰し、確信があったとしても、自分の信じる宗教的行為の有無によって、人を清いとか、汚れていると言うのは大きな間違いです。実は宗教はその熱心さゆえに、そのような差別を起こしやすいのです。多くの宗教が、誤った熱心さによって、差別を生んできました。キリスト教も例外ではありません。キリスト教こそ多くの差別を生み出してきました。私たちこそ注意をしなければいけません。

聖書によれば、神様はみんなの命を尊いものとして創られたはずです。だからすべての命は等しく、尊いのです。宗教や、出身、国籍、肌の色、性、障がいに関わらず、すべて神様が造った命です。だから私たちは命に優劣をつけない、差別しないのです。

私たちは主イエスを信じています。熱心に形式を守ります。一方で気を付けたいことは、そこから生まれる差別です。他の宗教やグループを、間違っている、劣っていると見下し、差別するようになることに注意をしなければいけません。

今日はこの個所から、神様は差別をしないお方であること。命に優劣をつけないお方であることを見てゆきたいと思います。

 

 

 今日の聖書箇所をお読みしましょう。3節・4節は水に関するユダヤ教の習慣を説明しています。ユダヤ教の人々は宗教的な理由で手をよく洗います。汚れをはらうために洗うのです。ユダヤ教における汚れとは血が出たり、血を触ったりすることです。そしてその汚れは他の人に触るとうつると考えられていました  。血によって汚れた人やモノと触ることによって、自分も汚れると考えたのです。

たとえば市場などの不特定多数の人が集まる場所に行くと、汚れた人に触ったかもしれないので、身の清めが必要でした。帰るとバプテスマのように、全身に水浴びをしたのです。手を洗うも同様です。汚れたものに触れた、触れたかもしれないので、念入りに手を洗いました。これ自体を形式主義だと批判するつもりはありません。他から見れば、私たちのバプテスマもかなり不思議な習慣ですから、互いに尊重したいと思います。

しかし私たちが注意したいのは、誰がこの習慣を決めたのか、背景にある差別の問題です。食前に手を洗えという命令は、旧約聖書のどこにもありません。食前に手を洗って汚れを清めなければならないというのは、聖書を読んだ人間・学者が、厳密に解釈し、規定として決めたことだったのです。これは聖書ではなく、学者の決めたことです。このようないわゆる「言い伝え」は多くありました。

それは多くの場合、イスラエルの中心地エルサレムの学者が編み出した規定です。そして中心地のエリートたちが編み出した基準は、律法学者が各地を巡回し「指導」してまわったのです。それが1節にあるエルサレムから来た律法学者とあるとおりです。都会のエルサレムから、農村地方のガリラヤの人々にいろいろな規定が持ち込まれました。中心地エルサレムではこうしている、これが正しい、だからお前たちガリラヤ人もそうしなさい、そうしないと汚れた者だと指導されたのです。そしてその基準は多くの場合、農村では現実的ではない、厳しい基準でした。

この宗教的熱心はかなり差別に近づいてきていると思います。宗教として、汚れをはらうということが、神様に向き合う自らの姿勢として持たれるのは大切なことだと思います。しかし、それが自分に向けられるだけではなく、他者に向けられる時、大きな差別の危険が伴います。自らの神の前の姿勢という意味を超えて、他者を「汚れた者」とする差別へと発展するのです。

自分たちの決めた規定で、他者の命を汚れているものとして、優劣をつけ、それと触れたかもしれない手を念入りに洗う自分たちを、清い者、優れた者と感じる集団になってゆくのです。

その習慣に入らない他者を、汚れていると差別をしました。なぜ俺の思う清い基準、正しい基準にお前は従わないのか。お前は汚れていると言ったのです。そして汚れていると言われた者は社会からどんどん排除されました。近寄ってはいけない、一緒に食事をしてはいけない、話をしてはいけないと言われたのです。

このような差別はキリスト教の歴史にもあるものです。宗教はその差別に特に注意しなければいけません。今日の箇所も「だからキリスト教が優秀で、形式主義の他の宗教・ユダヤ教は劣っている」と読むのは大きな間違いです。その考えはユダヤ人虐殺に発展しました。キリスト教がユダヤ人は劣っているとして、命の優劣をつけ、差別したのです。教会こそこの差別に特に注意を払わなければいけません。宗教的熱心さは時に、激しい差別を生み出すからです。

イエス様は今日の箇所で、どちらが優秀か、どちらが清いかという視点を変えるように促してます。そしてイエス様は、その習慣を守らない人、守れない人が汚れている、劣っていると言われること、差別されることに反対した方だったのではないでしょうか?汚れや差別ではなく、10節父や母、他者への慈しみに目を向けるようにと語っているのです。

私たちは今、アドベントを迎えています。今日この聖書の箇所からクリスマスの出来事をどのように思いめぐらすでしょうか。私が今日思い起こしたいクリスマスは、イエス様の誕生は聖なる場所で起きたことではないということです。聖書によればイエス様は、人間扱いされず、汚れた家畜小屋で生まれたのです。

そしてイエス様の誕生を最初に見つけたのは、異教の神々を拝むと差別された博士たちや、汚れていると差別された羊飼いだったのです。そのような場所にイエス様は生まれたのです。

そしてイエス様はいつも汚れていると差別された人の真ん中におられました。一緒に食事をしたり、直接触れたりしました。差別のただなかに生まれ、差別のただなかに生きたのがイエス様だったのです。そしてイエス様の最後は十字架刑というもっとも汚れた死に方だったのです。

私たちはクリスマスを聖なる日、聖なる夜として迎えようとしています。ろうそくを見ていると清らかな心になるような気がするのです。でもイエス様が生まれたのは聖なる場所ではなく、汚れていると言われる場所、人間が住む場所ではない家畜小屋、差別のただなかだったのです。私たちの主は聖なる夜に、汚れていると差別される、そのただなかに生まれたのです。それは私たちのクリスマスのイメージとは逆かもしれません。でも神は人々から避けられ、劣っていると言われ、触りたくないと差別されるそこに生まれたのです。それがクリスマスの出来事です。

私たち今日、主イエスに従いたいと願って集っています。イエス様はどこにいるのでしょうか。聖なる夜を待ち望む私たちです。でも本当にイエス様がおられるのは、きっとみなから汚れていると差別される、そこではないでしょうか。そして私の中の差別をする気持ち、そこに神様は来られるのではないでしょうか。そこにイエス様が生まれることを祝うのがクリスマスなのではないでしょうか。神様は差別の中に生まれ、差別を超えてゆくお方です。お祈りをいたします