「差別を超える神」マルコによる福音書7章1~13節

 

こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。

また、これと同じようなことをたくさん行っている。マルコ7章13節

 

私たちはバプテストというグループの教会です。全身で水に浸かる(全浸礼)という洗礼の形式に強いこだわりを持っています。しかしどの宗教を信仰し、確信があったとしても、自分の信じる宗教的行為の有無によって、人を清いとか、汚れていると言うのは大きな間違いです。実は宗教はその熱心さゆえに、そのような差別を起こしやすく、キリスト教こそ多くの差別を生み出してきました。

聖書によれば、神様はみんなの命を尊いものとして創られたはずです。だからすべての命は等しく、尊いのです。宗教や、出身、国籍、肌の色、性、障がいに関わらず、すべて神様が造った命です。だから私たちは命に優劣をつけない、差別しないのです。今日はこの個所から、神様は差別をしないお方であること。命に優劣をつけないお方であることを見てゆきたいと思います。

ユダヤ教の人々は宗教的な理由で手をよく洗います。汚れに触れたかもしれないので、身の清めが必要なのです。これ自体を形式主義だと批判するつもりはありません。私たちのバプテスマもかなり不思議な習慣ですから、互いに尊重したいと思います。しかし私たちが注意したいのは背景にある差別の問題です。

このような手を洗うという「言い伝え」はイスラエル中心地エルサレムのエリート学者が編み出した規定です。そしてエリート学者は1節にあるとおり、各地を巡回し「指導」してまわったのです。これをしないと汚れた者だと指導したのです。

この宗教的熱心は差別に近いものです。汚れをはらうということが、神様に向き合う自らの姿勢という意味を超えて、他者を「汚れた者」とする差別へと発展するのです。このような差別はキリスト教の歴史の中ではユダヤ人虐殺に発展しました。

イエス様は今日の箇所で、どちらが優秀か、どちらが清いかという視点を変えるように促し、差別に反対したお方でした。汚れや差別ではなく、10節父や母、他者への慈しみに目を向けるようにと語っているのです。

私が今日箇所から思い起こしたクリスマスは、イエス様の誕生は聖なる場所で起きたことではないということです。イエス様が生まれたのは聖なる場所ではなく、汚れていると言われる場所、人間が住む場所ではない家畜小屋、差別のただなかだったのです。そしてイエス様はいつも汚れていると差別された人の真ん中におられました。イエス様の最後は十字架刑というもっとも汚れた死に方だったのです。それは私たちのクリスマスのイメージとは逆かもしれません。

でも神は人々から避けられ、劣っていると言われ、触りたくないと差別されるそこに生まれたのです。それがクリスマスの出来事です。本当にイエス様がおられるのは、きっとみなから汚れていると差別される、そこではないでしょうか。そして私の中の差別をする気持ち、そこに神様は来られるのではないでしょうか。このように神様は差別の中に生まれ、差別を超えてゆくお方です。お祈りします。