【全文】「神はひとりにしない」ルカ1章39節~56節

みなさん、おはようございます。今日、クリスマスの喜びを共に分かち合えること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。そして今日はこの後、昼食会と小さな祝会を持ちます。この交わりもとても楽しみにしています。どうぞご参加ください。

さて先日は、教会のチャリティーバザーが行われました。たくさんの方のお手伝いをいただき、たくさんの寄付ができたこと感謝でした。バザーでは「OHANA(オハナ)」という団体のコーナーがあり、手芸品などが販売されました。その売上分はその団体の活動費としていただきました。

この「OHANA」という団体は、平塚市内でDVや性暴力による被害を受けた女性を支援している団体です。代表の方とは平塚市内でシェルターをしているというつながりから、いろいろなお話を聞かせていただくようになりました。OHANAさんの様々な関わりを聞かせてもらうのがとても勉強になっています。

先日は「妊娠SOSかながわ」という行政の電話相談窓口の存在を教えてもらいました。そのHPを見ると「思いがけない妊娠のお悩み相談。予期しない妊娠等に関する悩みを抱えた方のために、電話等による相談支援を行っています。相談料は無料」とのことです。

予期しない妊娠について電話で様々な相談ができる窓口です。誰にも相談できない時、このような窓口があることは大切なことだと思います。ただ課題もあるようです。電話相談を受け付けている時間を見ると、月・水・金の夕方4時~夜7時までととても短いのです。週3回3時間です  。

電話しても必ずつながるわけではありません。電話が重なれば、折り返しの電話となることもあるそうです。その場合は次の営業日(数日後)になることもあるそうです。さらにこの電話に電話しても、多くの場合次の相談先を紹介される仕組みです。十分な相談窓口とは言えないのが現状です。

OHANAの方がこうおっしゃったのを覚えています。「話を聞くだけならば、行政ではなくて、地域の人が良い」。考えさせられる言葉です。もちろん教会として24時間電話相談を受けるということは難しいのですが、私たち一人一人が、それぞれの地域で、それぞれの置かれた場所で、できることがあるのではないかと考えさせられる話でした。すべての支援はできなくとも、今その時、しんどい思いをしている人に声をかけ、話をじっと聞くことなら私にもできるのではないかと思わされました。

きっと私たちも誰かと出会い、聞くことによって、誰かの隣人になることができるはずです。そして、誰かが私と出会い、話も聞いてくれることよって、私の隣人となってくれるはずです。神様はきっと「どんな人もひとりにはしない」お方です。

クリスマスはにぎわいの中に、どこか取り残された寂しさを感じる時期でもあるでしょう。独りぼっちと感じる時があるでしょう。でもクリスマスこそ、神様は一人にしておかないお方です。神様は私たちに共に戸惑い、喜びを分かち合うことのできる仲間を与えて下さるお方です。そして神様ご自身が共にいて下さるお方です。今日、礼拝でこのことを聖書から読んでゆきたいのです。

 

 今日の聖書の箇所を見ましょう。聖書によればマリアも自身が予期しない妊娠をしていました。彼女がそれを聞いたときの混乱が聖書にしるされています。今日の箇所の少し前の箇所、34節です。「どうして、そんなことがおこるのでしょう」と戸惑ったのです。

マリアが予期しない妊娠を知った時、相談した人は誰でしょうか。両親や親しい友人など、かえって身近な人には相談できなかったのかもしれません。マリアの時代には未婚女性が妊娠することは、律法によって罰せられる可能性がありました。彼女が相談することができたのは、両親やきょうだいではなく、離れて住む「親類」のエリザベトでした。

この相談相手は神様に与えられた仲間でした。天使がマリアにエリザベトも同じ境遇だと教えたのです。その相談相手は行政が用意したのではなく、神様が似た境遇の相談相手として準備してくださっていたのです。

マリアはそのエリザベトに会いに行くことにしました。39節「急いで山里に向かいユダの町に行った」とあります。ユダの町がどこを指すのかはわかりませんが、伝説によればナザレから数日もかかる道のりだったのではないかと言われています。妊娠中の彼女が、大急ぎで、一人で、数日かかる、山里に向かうのです。そしてその滞在は3か月間だったとあります。それは妊婦がするには、とても危険な旅であったはずです。

しかしそんな危険な旅でも彼女は、強く行きたい、すぐに行きたいと願ったのです。SOSを出したのです。不安な気持ちを聞いてほしい、そう急いでエリザベトに会いに行ったのでしょう。

一方のエリザベトも自分が妊娠したことに戸惑っていました。これも前の箇所24節ですが、エリザベトは妊娠した後「身を隠していた」とあります。エリザベトはこどもを持つことを、ずっと願っていたはずです。しかしいざそれが現実になると戸惑い、不安になってしまったのです。そして彼女は家に引きこもったのです。その行動からは妊娠の喜びは感じません。

しかしそんなエリザベトと、同じ境遇であるマリアの二人が出会うことになりました。エリザベトとマリアと出会った時、二人は互いに同じ仲間を得たのです。エリザベトにとっても、マリアとってもすぐに互いが大切な存在となったでしょう。

マリアはエリザベトのもとに滞在した期間に、様々な癒しと励ましをもらったはずです。まず訪ねたとき42節、声高らかにエリザベトから「あなたは女の中で祝福された方です」そう祝福の言葉をかけられたのです。そしてさらに45節「なんと幸いだろう」と喜んでくれたのです。今まであれほど戸惑っていたことを、吹き飛ばすような大声で喜んでくれる仲間を見つけたのです。

マリアにとってエリザベトの存在はとても心強かったでしょう。自分の出来事を一番喜んでくれる存在でした。そしてさらに同じ境遇で、妊娠ということについては6か月の先輩です。自分にこれから起こる変化をよく知っているのです。

何よりも励ましになったのは、おなかのこどもの命だったでしょう。エリザベトのこどもが、おなかの中で、喜び踊っています。マリアもエリザベトのお腹に耳を当てて、こどもが喜び踊るのを聞いたでしょう。

エリザベトにとってもマリアは大きな励ましとなったでしょう。エリザベトも戸惑っていたのです。しかし、マリアが訪ねるとエリザベトは聖霊に満たされました。隠れていた人が、大きな声で「なんと幸いでしょう」と叫んだのです。

二人はそれぞれ予期していないことに遭遇し、戸惑っていました。しかし二人の出会いはお互いに大きな励ましとなりました。二人は分かち合い、励まし合うことができたのです。予期せぬ自分の妊娠を受け入れ、前に進むことができたのは、このような仲間の存在が大きかったはずです。その貴重な3か月、分かち合う仲間をいただいた、大切な時間になったでしょう。

そしてこの仲間は確かに神様が与えて下さった仲間です。神様が準備をしてくださっている仲間です。神様はこのように私たちを一人にしないお方です。神様は戸惑う私たちを出会わせ、互いに励まし合い、分かち合うことのできる、喜び合える仲間を用意してくださるお方なのです。私たちには「あなたは神様に祝福されているよ」「なんと幸いだろうね」と言い合える仲間が与えられるのです。

私たちにもきっとマリアにとってのエリザベト、エリザベトにとってのマリアが与えられるでしょう。その仲間はきっと教会の中でこそよく見つけることができるはずです。そしてもちろん教会の中だけではなく、それぞれに与えられた場所で、見つけ、出会うことができるでしょう。

私たちには誰かの話を聞く、戸惑いを聞く。私たちが誰かに話を聞いてもらう、戸惑いを聞いてもらう、そのような出会いが起きるでしょう。そしてその先の不安にも、祝福と幸いがあると信じ、共に喜ぶことができる仲間が与えられるはずです。マリアとエリザベトに起きたことが私たちにも与えられるはずなのです。

続く、有名なマリアの賛歌をよく見ましょう。51節~53節には「権力ある者をその座から引き降ろし…」とあります。ここでは「わたし」のことだけではない、社会正義に関わることが語られています。

51節~53節は文脈からはとても不思議な内容です。妊娠中の女性が、社会で思い上がる者を打ち散らすこと、身分の逆転、貧富の差の逆転を神に願っています。唐突に感じるでしょう。しかし私はどこか行政と社会が変えられるようにという願いにも聞こえるのです。それは私たちが互いに支え合い、励まし合い、聞き合って生きると同時に、行政や社会の変革を願うという態度と通じているでしょう。

私たちは今日、このようにクリスマス礼拝を迎えています。イエス様の誕生を祝う時をいただいています。まず神様はこのように、イエス様の誕生に際しても、一人一人を一人ぼっちにしないお方です。神様は助け手、相談相手、同じ境遇の人と出会わせてくださるお方です。

そしてそれはこの教会の交わりや、私たちのそれぞれの場所でも起こるはずです。戸惑いの中でも「祝福」と「幸い」を見つけ、共に喜び合うことができる仲間が与えられるはずです。

私たちはもう一度、そのような「祝福」と「幸い」の出会いを、出会い直したいのです。戸惑うことを分かち合い、喜びを分かち合い、互いに励まし、祈りあってゆきたいのです。そのような愛し合う教会になりたいのです。

神様は決して私たちを一人にしないお方です。どんな時も、共に戸惑い、共に喜びを分かち合う仲間を与えて下さるお方です。そして何より神様が共にいてくれるお方です。今日その喜びを共に分かち合いましょう。お祈りいたします。