「教会には夢がある」出エジプト記14章15~22節

 

イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。                    出エジプト記14章22節

 

こひつじ食堂が教会に様々な変化と必要を起こしています。教会は礼拝する場所という枠組みに留まりません。教会の変化を見ていると、キング牧師が「私には夢がある」と言ったように「教会には夢がある」と感じます。いつの日か地域の様々な人が集い、こども同士が仲良く食事をして、お年寄りがそれを見て笑うという夢です。これをもっと広げてゆきたいのです。一方、そのために必要な設備は変わってきています。さらに以前から修繕すべきところも多く残っています。

「私たちには夢がある」と感じていても会堂建築のことが後ろから迫って来るようにも感じています。ただわかっているのは、私たちは待っていてはいけないということです。何かを選択し、歩みださなければいけないということです。

今日の箇所を読みましょう。旧約の時代イスラエルの人々はエジプトで奴隷として、厳しい毎日を送っていました。人々はそのエジプトから逃れて、神様の約束の土地へと出発したのです。でも希望への道は困難な道でした。イスラエルの民は二つの困難にまさに板挟みになっています。そしてそこに、神様からの風が吹きました。神様によって新しい道が開かれたのです。その道は閉ざされるかもしれない恐ろしい道だったでしょう。でも彼らは勇気と信仰をもってその道を歩みだしたのです。

私たち一人一人にもこのような出来事は起るでしょう。私たちも2つの問題で板挟みとなる時があります。しかし今日の聖書箇所によれば、そのとき神様は新しい道を開いてくださるお方です。教会も歩み出す一人一人と同じです。建物はどうなるかまだ道がはっきりあるとは言えません。私たちは海と軍との間にいる民と言えるでしょう。そんな私たちに神様は必ず道を造ってくださいます。そしてもし私たちがその道を見つけたならば、待っていてはいけないのです。勇気と信仰をもって、一歩を踏み出さなくてはいけないのです。

渡った後の人々の姿にも目を向けましょう。残念ながらモーセ自身は約束の地に入ることはかなわず、こどもたちが見たのです。出エジプトは自分たちのためではなく、子どもたちのための出エジプトだったのです。私たちはこどもを大切にする教会です。大切にするこどもたちが乳と蜜が流れる場所を見るために、私たちは出エジプトするのです。今出発すれば、こどもたちがそれを見れるかもしれない。私たちにはそのような希望もあるのです。

そして今日は成人祝福祈祷の時も持ちます。新しい希望へと出発する時です。その先には困難があるでしょう。板挟みになることがあるでしょう。でも必ず神様は新しい道を下さるはずです。勇気と信仰を持ってその道を歩みましょう。私たちも若い人、こどもたちが希望をもって歩むことができるように、一歩を踏みだしたいと願っています。お祈りします。