【全文】「できない人を選ぶ神」エレミヤ書1章4~10節

 

わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。/わたしは若者にすぎませんから。」            エレミヤ書1章6節

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら共に礼拝をしてゆきましょう。

今日この後は臨時総会が持たれ、執事選挙と会計監査の選出が行われます。まずは思うのは、今の執事の皆さんに感謝したいということです。2年間の任期、本当にお働きお疲れ様でした。今日はこの後、選挙を行いますが、もしみなさんが執事に選ばれたらどうするでしょうか?「どうしよう、なんと言って断ろうか」と考えるでしょうか。

最近、どの組織でも担い手不足という問題があるものです。教会も同じです。多くの教会で執事を選ぶということに苦労しています。ある教会では再任の制限、期間の制限を設けています。選挙でえらばれると、2年や6年といった任期以上に働くことができないという制度です。こういう制限があった方が、誰かに集中しないで、みんなで分散させて担うことができるというメリットがあります。

もちろん課題もあります。いつも慣れない人が執事をやることになるのです。さらに短い任期だとどうしても前例踏襲が中心になってしまいます。そういった面でこの教会のように長く執事が変わらないことは良い面も多いものです。

チームワークやチームバランスが整います。阿吽の呼吸が生まれてきます。長期的な視点を持って教会を見ることができます。もちろん長く務める課題もあります。一番は代替わりが難しい事です。長く執事をしてきたベテランの後を担う、同じように働くのはとても難しいものです。代替わりがうまくできず、高齢になっても負担が続くということも課題です。

選挙では断る権利があるということも大事なことでしょう。仕事や介護、病気、年齢、育児などの理由で「できません」と辞退する権利がしっかりと守られないといけません。そうではないと押し付け合いになってしまうからです。

奉仕を押しつけられて礼拝や教会、生活がうまくいかなくなってしまってはいけません。誰にでも断る権利があることは大事です。無理な奉仕のお願いをしたくないと思っています。できないものはできないと断ってください。しつこく説得するもの好きではありません。教会の奉仕をすることで何かを犠牲にしないで欲しいのです。家族の時間、自分のための時間を大事にしてほしいのです。

ただできない理由というのは無限にあるものです。私はある教会にいた時、奉仕を依頼する側だったことがあります。選ばれた方に連絡をする係だったですが、連絡するとすぐに断られました。次点だった方に連絡をしましたが、また断られるのです。さらにその次の方も、その次の方も断られるのです。繰り返し断られてゆくうちに本当に心が折れてしまったということがありました。涙が出てくるような体験でした。

牧師として執事というのはなんでも相談できる、相談相手です。毎月の議事録には性質上一部しか掲載されませんが、教会のすみからすみまで、人間関係も含めて、いろいろなことを報告・相談しています。私の宣教についても感想やヒントをもらっています。それは個人的に相談しているのではなく、選挙で選ばれた方々に相談をしています。執事のみなさんはそのようにして私の心の支えとなっている存在です。

もちろん執事や選挙の制度そのものの改善も必要でしょう。選ばれた人、それぞれが担えるボリュームにしてゆくことも必要でしょう。礼拝も行事も相談事も、何でもすべて執事に任せるのではなく、できることを細かく分散してゆくということも考えなければいけないでしょう。全部はできないけれど「これならできる」それを増やしてゆく工夫も必要でしょう。

いずれにしても私たちの選挙は、不十分な制度の中で、不十分な私たちが、不十分な者の中から、不十分な者を選ぶという選挙です。仕組みにも個人にも不十分ばかりです。

私たちはどのように投票をしたら良いでしょうか。私にはできないから、あの人にお任せしようと投票することは、もうできないでしょう。きっとあの人もできないのです。あの人だって事情があってできないのです。私は誰かを選ぶけれども、私も精一杯を献げるという思いを持って投票をすることが必要でしょう。私たちは、私もできる限りの精一杯を担う、そのような思いで投票をしたいのです。共に精一杯を献げる、その気持ちを持って投票をしてゆきましょう。

そして今日の聖書から一緒に、神様の選びを見てゆきましょう。私たちがお互いから不十分な者を選ぶように、神様も不十分な者を選ぶお方だということを見てゆきたいのです。今日の聖書を読みましょう。

 

今日の箇所、5節で神様は「わたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた」とエレミヤに語っています。神様はエレミヤをイスラエルの預言者、神様の言葉を伝える者として、選んだというのです。それに対してエレミヤは6節「ああ、わが主なる神よ

わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と応えています。その神の選びを断っているのです。自分は未熟で、その働きには不十分だと言っているのです。

無理もないでしょう。この「若い」という言葉をみると、それは結婚前を意味する言葉、当時では10代を表す言葉です。おそらくこのころのエレミヤはまだ10代だったのではないかと言われています。

旧約聖書、民数記には一人前の祭司として働くことができるのは三十歳からだと書いてあります 。ですからこのような若者が立てられるのは異例のサプライズ人事です。多くの人は思ったでしょう。そして誰よりエレミヤ自身が思ったはずです。神様はこんなにも幼い、こんなにも未熟な、不十分な者を選ぶのだろうかと。

しかしそれが神様の選びでした。神様は人々から尊敬され、すでに指導的な立場にいる人を選んだのではなかったのです。神様はできる人ではなく、できない人を選んだのです。若くて未熟な者を選んだのです。神様は一見、不適切、不十分と思われる人を、ご自分の働きのために選ぶお方なのです。

神様は、神の民が最も困難な時代に、幼い預言者を選びました。その神の任命はあまりにも重いものだったでしょう。残酷ともいえる選びだったでしょう。

当然彼は繰り返し断りました。なんども辞退したのです。やっぱり私にはできないと。それは大事な権利です。それぞれに事情があるからです。しかし神様はそれでもしつこくエレミヤを選んだのです。このように神様はふさわしくない者を選ぶのです。

エレミヤはその後、どのような人生を歩んだのでしょうか。彼は神に守られ何不自由なく暮らしたのではありませんでした。神様はエレミヤに苦労のない道を歩ませたのではありませんでした。選ばれたエレミヤは人一倍苦労の多い道を歩まなければなりませんでした。それゆえエレミヤは涙の預言者と呼ばれます。エレミヤは聖書の中で繰り返し、つらくて涙を流すのです。

思い通りにいかず、その預言者の働きがつらくて、しんどくて泣いたのです。エレミヤはそのような泣き虫預言者でした。神様は確かに8節「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と言いました。しかしそれは、万事うまくいくという意味ではありませんでした。苦労が続いたのです。エレミヤは自分の器に対して大すぎる役割を与えられ、泣きながらその預言をしたのです。神が共にいるとはそのようなことです。万事がうまくいくというのではなく、つらくて涙を流す時も、そのような時こそ神が共にいるという意味です。エレミヤの働きはつらくて大変な働きだったと思います。この奉仕を受けたエレミヤは幸せだったのかと思ってしまいます。

しかし私も様々な働きを通される時があります。しぶしぶ受けた働きで苦労するときがあります。そんな時、このエレミヤの姿に励まされることがあります。それはたとえどんなに神様の導きを感じたことだとしても、その働きがうまくいくわけではないということを教えてくれるからです。あのエレミヤでさえうまくいかなった事なのです。私にもきっとうまくゆかないのです。あのエレミヤでさえ泣きながら働いたのです。やりたくない、できないと何度も不満を言いながら、働いたのです。私もそうです。泣きながら不満を言いながら働くのです。その姿が私にとって大きな励ましになります。

いいのです。しぶしぶ受けても、できなくても当然です。うまくいかなくても当然です。泣いてもいいのです。不満を言いながらでもいいのです。そのただなかにこそ神様は共にいてくれるのです。そのように感じます。

多くの預言者たちも同じでした。神様に選ばれた、招きを受けたとき、戸惑い、断っています。そしてしぶしぶそれを受けて、失敗し、苦労し、不満を言いながら歩んでいます。でもそれで良いのです。それが神様の選びなのでしょう。

私たちもエレミヤと同じでしょう。私たちも不十分な者です。未熟な者です。断ります。でもしぶしぶそれを受ける時もあります。そしてやっぱり苦労するでしょう。でもきっと神様はそのような時こそ私たちと共にいてくださるでしょう。

私たちは自分の精一杯を献げたいのです。私たちの先にはきっと喜びと、そして涙があるでしょう。それを共に受けてゆきましょう。私たちは一緒に喜び、一緒に涙する仲間となってゆきましょう。わたしは必ずあなたたちと共にいるという神の下で、共に精一杯をささげてゆきましょう。お祈りいたします。