【全文】「信教の自由の礼拝」マルコ2章1節~12節

「信教の自由の礼拝」

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

マルコ福音書2章4節 

 みなさん、おようございます。今日も共に礼拝をできること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもの声も足音も礼拝の一部としてお献げしています。一緒に礼拝をしてゆきましょう。子どもも大人も自由を感じれるような礼拝をしてゆきましょう。

今月は信教の自由というテーマで宣教をしています。今日は天皇制について考えましょう。キリスト教が天皇制に反対するのは、いくつかの理由があります。一番は政教分離の原則から反対してします。国が特定の宗教を支持したり、あるいは禁止したり、その行事のために税金を使ったりするのはおかしいということです。

例えば天皇は毎年11月23日に新嘗祭という宮中祭祀を執り行っています。天皇が代表して日本の神様に収穫を感謝し、天照大神の霊を身に受ける行事だそうです。立派な宗教行事です。これが毎年税金で行われています。特に天皇の就任1年目は大嘗祭と呼ばれ、大がかりです。令和元年は27億円がかけられました。

日本は天皇の宗教行事を国が執り行うことを続けてきました。結果、日本に住むなら日本の神を信じて当たり前という風習につながっています。年号は天皇中心に数えられます。他の宗教の自由が侵されているのです。キリスト教は天皇制について、税金で宗教行事をするのをやめるべきだと訴えています。

天皇制については人権の問題もあります。天皇の一族には基本的人権がありません。国民には基本的人権が保障されていますが、天皇の一族にはありません。まず選挙権がありません。この制度を変えたいと思っても、投票することができないのです。立候補もできません。生まれながら職業や住む場所を選ぶこともできません。表現の自由がありません。言論の自由もありません。結婚の自由もありません。小室圭さんと眞子さんの結婚もそうでした。国民が「ふさわしい」と支持する人、「模範的」と祝福される結婚でないと国民からの激しい非難を浴びます。なんと不自由なのでしょか。

もちろん信教の自由もありません。自分の信じることや、願いは関係ありません。どのような信仰を持っていても、ただ税金で執り行われる日本の神々への五穀豊穣祈願を続けなくてはならないのです。それをやめることも、変えることも、変えたいと言うことも許されないのです。人権無視も甚だしいこの制度はやめた方がいいでしょう。信教の自由の観点から、そして人権の観点から、キリスト教は天皇制を廃止した方がよいと主張しています。

私たちは自覚的な信仰を重んじる、自らの信仰の決断を重んじるバプテストというグループです。誰かからこれこれを信じなければいけないと言われません。あれをしなければいけないと言われることがありません。

個人個人の自由と、平等を大切にするのがバプテストです。私たちバプテストから見ていると天皇制が見ていてかわいそうすぎます。生まれてきた家によって、決められた宗教行事を行わないといけない。信教の自由も無い、行動の自由も無い、表現の自由も無い。やめる自由もありません。早く個人のためにも、天皇制は廃止した方が良いです  。

それに比べて私たちはどうでしょうか。私たちはとても自由な雰囲気の中で礼拝をしています。服装も自由です。礼拝に来ないといって怒られたり、脅かされたりしません。誰かの理想を押し付けられたりしません。時々、子どもの声や足音が響きます。私たちの礼拝はとても自由な礼拝です。この自由な姿を大切にしてゆきたいですし、もっと礼拝に自由さが表せることもまだまだたくさんあると思います。そしてこの自由、しっかりと守られていくようにしたいと思います。自由が守られるように、自由がこの礼拝から広がってゆくように、私たちの生活にも、日本にも、世界にも自由が広がってゆくように願って、この自由な礼拝をささげてゆきたいと思います。今日の聖書を読みます。今日は不自由な人と自由な人が登場する物語です。それを見てゆきたいと思います。 

 

今日の聖書箇所をお読みしましょう。いろいろな登場人物がいます。まず4人の仲間に注目しましょう。この4人、なんと常識破りで自由な人々でしょうか。2節、彼らがついたとき、もう戸口まで満員で家に入ることができなかったとあります。そこから考えると、彼らは前もって計画を立て、早めに家を出てイエス様のところに向かったのではなかったのでしょう。おそらく彼らは思い付きでイエス様に会いに行きました。誰かに日付と時間を決められたのではなかったのです。彼らは思い立った時、出発しました。自分たちが思い立った時、イエス様のもとに歩み出したということです。それはとても自由な一歩、自覚的な信仰の一歩でした。

彼らが出発したのは、イエス様の語るみ言葉が何か起こすのではないかという期待からです。イエス様の言葉を聞くと、あの仲間に何かが起こるような気がしたのです。仲間の不自由さが自由になる、体の不自由さも自由になるのではないかと期待して出発をしたのです。ちょっと今から行ってみようよ。そんな自由な出発です。

彼らの自由さは続きます。そういう自由な人というのはだいたい遅れてきて、いい席がないものです。時間より前にちゃんと来た人が良い席に座ることができます。でも彼らは自由でした。天井から大人4人の足音がします。彼らは屋根に穴をあけ、仲間を吊り下げました。なんと縛られない発想、自由な人なのでしょうか。礼拝中はおしゃべり禁止、座りなさい、背筋を伸ばしなさい、手は膝の上、足をぶらぶらしてはいけません、そういう堅苦しさを全く持たない4人です。彼らは足音を立てて屋根に上り、屋根を突き破って、仲間を吊り下げたのです。

彼らはかなり自由な人です。でも強い期待を持っていました。それは神様がきっと何かを起こしてくれるはずという信頼でした。この痛みを持ち、立ち上がれないでいる仲間がいる、でも神様ならきっとどうにかしてくれるという信頼を4人は持っていたのです。イエス様はこの仲間に、私たちに自由を与えてくれるはずと信頼したのです。み言葉が何かを起こすはず。だから私たちも一緒に礼拝をしよう。遅れてもいい。4人はそのような自由でがむしゃらな神様への信頼を持っていました。ちょっと危ない、先に来て、ちゃんと礼拝している人にとってはちょっと迷惑です。でもイエス様はこの4人あるいは、吊り下げられている人も含めて5人の思いを受け止めています。そしてイエス様はこの5人のことを神様への確かな信頼を持っている人だと見たのです。その信仰・信頼を見て、赦しと癒しを行ったのです。そしてそこで何かが、奇跡のような何かが起きたのです。

私も神様にそんなまっすぐな信頼を向けてゆきたいです。彼らは、聖書の言葉を聞けば自分たちに何か起こると信じました。自由になれると信じたのです。そのように神様に信頼し、自由に駆け出し、自由に礼拝をしました。私もこの5人のようになりたいと思います。

そして5人の自由さを見ていて、これこそ信教の自由だと思うのです。自由に信じ、駆け出し、自由に礼拝する。こんな風にすべての人に信教の自由があればよいと願います。誰もが信じる自由を持つ、そのような世界になって欲しいと思います。

 

そしてこの5人の自由さを見ると、本当に天皇制の息苦しさに胸が詰まります。一族の不自由さ、それが税金で執り行われるこの国の息苦しさを感じます。そして私はその不自由からの解放を求めて、今日もこの自由な礼拝をささげたいのです。

私が不自由を感じるという時、床に横たわり吊り下げられる人に目が行きます。彼にも自分を重ねます。自由がないということの苦しさを想像します。彼だけでは、礼拝に行くことは難しかったでしょう。私も同じです。自分ひとりだけでは礼拝できないと思います。オンライン礼拝で分かったことでもあります。自分ひとりだけで礼拝を続け、イエス様の言葉を聞き続けることは難しいのです。誰かに誘われる、導いてくれる、誰かが待っているから私たちはそこに集い、神様の言葉を聞くことができるのです。礼拝できるのです。

私たちも思いはありながらも体がなかなか動かないもの、行動に起こせないものです。しかし今日の個所によれば、自分だけで礼拝できない、お互いに頼りながらここに集う、その弱さの中に、不自由さの中に、神様の力が働くのです。この中風の人の信仰や行動力は何も記されていません。イエス様は、ただここに来た、連れて来られた、その人に一方的に恵みを、自由をお与えになるお方です。その神様の力が彼の身体を動かしたのです。

私たちにも今日、このことが起こるでしょう。なかなか体の動かない私たちに、立ちなさい、行きなさい、自由になりなさいと励ましの言葉がかけられるでしょう。み言葉というのはそのようにして、人にはできない出来事を起こすのです。自由さを起こすのです。それがこの礼拝から世界へと広がるのです。

今日の最後の箇所12節には、大勢の人がそれに驚いたとあります。何に驚いたのでしょうか。屋根を破って入ってくるその自由さ、その信頼にも驚いたでしょう。そして弱さや不自由のあるところに、イエス様のみ言葉が響き、力と自由が訪れたそのことに驚いたのです。

神様の言葉のあるところには何かが起こります。その信頼、期待はまた多くの人をこの家に集めたでしょう。たくさんの人が自由を求めてこの家に集ったでしょう。私たちもそんな礼拝をしたいのです。

今日、私たちは礼拝に集っています。私たちは礼拝できる自由があります。それはかけがえのないことです。そしてこの礼拝は自由を分かち合う礼拝です。そして私たちを自由にする礼拝です。この礼拝から、礼拝する自由、信教の自由が日本と世界に、天皇制の廃止へと広がっていくことを願います。お祈りいたします。