「信教の自由の荒波」マルコ4章35~41節

しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。マルコ4章38節

 

今月は信教の自由というテーマで宣教をしています。戦時中の大半の教会はおそらく「天皇もキリストも両方信じる」立場でした。戦時下の弾圧の中で、信仰を守ることより、天皇制と折り合いをつけて教会が生き残ることを選びました。例えば礼拝で天皇を賛美する君が代を歌いました。皇居に一礼してから礼拝を始めました。

しかしホーリネスの人々は天皇制に反対しました。「信教の自由」を守ろうとした結果、逮捕され、拷問され、教会は解散となりました。逮捕された牧師の中には長尾三二という人がいました。彼は戦後、この教会の初代牧師となりました。私たちはその歴史の中で今日、信教の自由について考える礼拝を持っています。

私たちはどのような時代でも信教の自由を守る、信仰を守るということを大事にしたいのです。今日の個所から、嵐のような時代の中でも、信仰を守るということ、信教の自由を守ってゆくことを考えたいと思います。

今日の個所は旧約聖書ヨナ書にも似た箇所があります。ヨナ書で人々は嵐の原因と思われたヨナを縛って海に投げ込みました。嵐も、コロナも、戦争も人間の分断を呼び起こします。弟子たちは人間の働きが嵐の前に一切の効果がないことを知って、叫んで言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。舟の後ろにいた、イエス様をようやく振り返り、呼びかけたのです。私はこの場面で、イエス様が本当に眠っていたのかということを考えさせられます。私にはなぜか今日、イエス様が私たちをしっかり見ている、まなざしを感じるのです。イエス様は弟子が自分に声をかける時を待っていたのではないでしょうか。

大切なことは、自分自身の手でどうにかしようとすることをやめて、自分を守る手を止めて、神様の前に進み出るということです。危機の時にこそ、自分が弱い者で、神様の助けが必要であることを告白してゆくことです。それをイエス様は舟の後ろでずっと待っていたのです。私たちも荒波にもまれる時、舟の後ろにいるイエス様を振り返るようにと、この物語は語っています。

戦時中の多くのキリストの教会は舟を守ることで精一杯でした。仲間を見捨てながら、なんとか生き残ろうとしました。あのとき教会はイエス様を振り返ったと言えるのでしょうか。きっとそれは不十分だったでしょう。私たちは危機の時、監視し合うのではなく、仲間を大切にしましょう。そして必ずその舟にはイエス様が一緒におられるのです。そして人間の力ではなく、イエス様を信頼してゆく力こそ、嵐を沈めるのだということを、忘れないでいたいのです。振り返りたいのです。

ホーリネスの人々は戦時中、一度は解散をしましたが、戦後再び教会を起こします。平塚教会もその一つであり、その嵐を乗り越えた証しなのではないでしょうか。

私たちは、大きな嵐の時、信教の自由が脅かされる時、イエス様を振り返り、信仰を守ってゆきたいのです。お祈りします。