【全文】「信教の自由の荒波」マルコ4章35~41節

しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。マルコ4章38節

 

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒に礼拝をしてゆきましょう。

今月は信教の自由というテーマで宣教をしてきました。今日はその最後です。これまで信教の自由をバプテスト、靖国神社、天皇制の視点から考えてきました。今日は戦時中の教会の姿、特にホーリネスというグループのことから考えたいと思っています。

先日2月11日に神奈川連合の集会に参加し、戦時中に弾圧されたにホーリネスのお話を聞きました。戦時中にホーリネスは信教の自由を訴えたグループです。天皇を崇拝することに反対をしたグループだったのです。

日本は戦時中(そして一部では今も)天皇を中心とした国でした。そのような時代の中で、ホーリネスの人々は天皇を崇拝しない非国民として、政府や軍の監視対象とされていました。そして今回の集会で聞いたことですが、監視をしていたのは政府や軍だけではなかったそうです。地域の人々からの目も監視のひとつでした。日本全体が天皇制を中心とするように迫った時代、多くの教会は「天皇かキリストか」それを政府だけではなく地域からも監視され、迫られたそうです。

なにか危機が起こる時、お互いのことを監視するようになるというのは、今の私たちもよくわかることです。コロナが始まり、営業している飲食店はないか、熱のある人はいないか、お互いを監視するようになりました。戦時中もきっとこんな雰囲気だったのでしょう。日本全体が天皇を中心として戦争をしているとき、天皇制に反対する者はいないか、戦争に反対する者はいないか、相互に監視されました。ホーリネスの人々は白い目で見られ、指さされ、差別されました。中には逮捕され、拷問され、死んでいった人もいたのです。

当時の大半の教会は、おそらく「天皇もキリストも両方信じる」という立場でした。天皇制と折り合いをつけて礼拝を守りました。戦時下の弾圧の中で、信仰を守ることより、教会が生き残ることを選びました。多くの教会は国家の指導に従いました。自分たちの信仰を変えたのです。例えば礼拝で天皇を賛美する君が代を歌いました。礼拝は皇居に向けて一礼してから始めました。それが戦時中の教会でした。教会はその時代に抗うことが十分にできなかったのです。自分たちの信仰を貫けなかったのです。

しかしホーリネスの人々は天皇制に反対しました。自分たちの「信教の自由」を守ろうとした結果、逮捕され、拷問され、教会は解散となりました。

その時、周囲の教会・教派はどうしたでしょうか。多くの教派はホーリネスを批判しました。自分たちは天皇制を支持していて、あんなホーリネスとは違うと批判したのです。信仰の仲間を切り捨て、自分たちを守る足がかりとさえしたのです。

これが天皇制で起きたことです。これが戦争で起きることです。私たちは忘れてはいけません。キリスト教は気づいたら、自分たちの信教の自由、信仰を捨てていたのです。そして信仰を守る仲間を見捨てていたのです。

多くのホーリネスの牧師は逮捕されました。そしてその中に長尾三二という人がいました。彼は戦後バプテストに加わり、この平塚バプテスト教会の初代牧師となりました。私たちはそのような歴史の中で今日、信教の自由について考える礼拝を持っています。

私たちはどのような時代でも信教の自由を守る、信仰を守るということを大事にしたいのです。そして世界で信教の自由が守られているかに目を注いでゆきたいのです。それは私たち、特にホーリネスの流れを持つ平塚バプテスト教会の大切な使命ではないでしょうか。そして、この平塚の地の信教の自由を守ってゆく大きな役割が私たちにあるのではないでしょうか。

今日は嵐の中の舟の話を読みます。この話から、嵐のような時代の中でも、信仰を守るということ、信教の自由を守ってゆくことを考えたいと思います。聖書を読みましょう。

 

今日の個所を見ると、もともとこの船旅は、イエス様ご自身が「向こう岸に渡ろう」と言って始まった旅です。しかしイエス様に従ったにも関わらず嵐にあいます。それはイエス様に従うと平穏無事、凪のような人生が約束されるのではないということを示します。イエス様に従っても人生に嵐は起こるのです。

旧約聖書ヨナ書にも似た箇所があります 。ヨナの乗った舟が沈みかけた時、そこで人々はこの災難は誰のせいなのかと指をさし合いました。この舟でもそのようなことが起きたでしょうか。誰の悪事のせいで嵐になっているのか、犯人捜しが起きたでしょうか。コロナのような犯人捜しが起きたでしょうか。ヨナ書では人々は嵐の原因と思われたヨナを縛って海に投げ込みました。嵐も、コロナも、戦争も、そのようなことを起こします。嵐よりも恐ろしい、人間の分断を呼び起こすのです。

舟には何度も大波が襲い掛かり、水が溜まってゆきます。弟子たちは必死に舟から水を汲み出したでしょう。少しでも舟を軽くするため、大切な荷物を捨てたでしょう。必死で波と戦ったのです。人間のできうる努力をすべて試みたのです。そして自分の力では対処できないと感じた時、弟子たちは叫んで言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。

これは元の言葉では破滅を表すことばです。「私が破滅してもかまわないのですか」という叫びです。困難にある時、私たちは神様が何もしてくださらないと感じる時があります。この時もそうです。振り返るとイエス様は寝ていたのです。私たちの神様は、このように私たちの危機の時、眠っているのでしょうか。神様はこの状況から、弟子たちを助けようとしません。

弟子たちがイエス様に叫んだのは、おそらく嵐からしばらくたったころでしょう。荒波にもまれ、舟の底から水をだし、必死だった彼らは、死と破滅を覚悟するまで、イエス様に声をあげませんでした。

自分たちの経験や知識で対処しようとしたと言えるでしょう。その人間の働きが嵐の前に一切の効果がないことを知って、弟子たちは初めてイエス様に声をあげたのです。破滅を覚悟した時、初めて、舟の後ろにいた、イエス様を振り返り、呼びかけることができたのです。

私は改めてこの場面で、イエス様が本当に眠っていたのかということを考えさせられます。なぜ眠っていたのか、本当に眠っていたのでしょうか。私にはなぜか今日、イエス様が私たちをしっかり見ている、じっと私たちを見ている、そのまなざしを感じるのです。イエス様は自分に声をかけるその時まで待っていたのではないでしょうか。

イエス様は眠っています。しかし本当は全ての状況を知っておられるのです。その気配を私は舟の後ろから感じます。そして、いつ弟子たちが自分に声をかけてくるのか、じっと待っている。そんな気配を感じるのです。

大切なことは、自分自身の手でどうにかしようとすることをやめて、自分を守る手を止めて、神様の前に進み出るということではないでしょうか。危機の時にこそ、自分が弱い者で、神様の助けが必要であることを告白してゆくこと。それをイエス様は舟の後ろでずっと待っていたと思うのです。この物語は荒波にもまれる時、私たちの舟の後ろにいるイエス様を振り返るようにと語っているのではないでしょうか。

私たちには時代の荒波が必ず押し寄せてきます。災害のような困難が襲ってきます。信教の自由を奪おうとする嵐、戦争の嵐、私たちの生活を脅かすコロナという嵐がすでに押し寄せています。私たちはそれに対してどう向き合えばよいのでしょうか。

舟が沈まないようにしないといけません。生き残ってゆかなければいけません。そのために必死に努力をするでしょう。教会を守ろうと必死になるかもしれません。しかし、危機の時こそイエス様を振り返りたいと思うのです。眠っているように見える、イエス様に振り返りたいのです。

私たちが振り返る時、舟に一緒に舟に乗っておられる方がいるということが分かります。そしてその方は私たちを待っているのです。嵐の中で振り返ること「自分の力では破滅しそうで、あなたの力が必要です」そう告白することを待っているのです。それがこの物語です。

戦時中の多くのキリストの教会は舟を守ることで精一杯だったように見えます。あらゆる努力をし、舟を守りました。仲間を見捨てながら、自分たちの大切なものを捨てながらなんとか生き残ろうとしました。しかし本当にそれが正解だったのでしょうか。あのとき教会はイエス様を振り返ったと言えるのでしょうか。きっとそれは不十分だったでしょう。

私たちもこのことをよく覚えてゆきたいのです。危機の時、監視し合うのではなく、仲間を大切にしましょう。そして覚えていましょう。危機の時にも、必ずその舟にはイエス様が一緒におられるのです。

そばにいないように感じても、確かに私たちを見て、何が起きているのか知っておられるのです。イエス様は私たちが振り返ることをずっと舟の後ろで待っておられるのです。そして人間の力ではなく、イエス様を信頼してゆく力こそ、嵐を沈めるのだということを、忘れないでいたいのです。

ホーリネスの人々は戦時中、一度は解散をしましたが、戦後再び教会を起こしてゆきました。そしてこの教会もその一つです。この平塚教会があるということが、その嵐を乗り越えたという証しなのではないでしょうか。私たちにも大きな嵐の時、信教の自由が脅かされる時、イエス様を振り返り、私たちの信仰を守ってゆきたいのです。

信教の自由について1ヶ月見てきました。どんなことをお感じでしょうか。時代の荒波の中、信教の自由が脅かされる嵐の中でも、私たちはイエス様に信頼してゆく、このことを貫き、大切にしてゆきましょう。お祈りいたします