【全文】「神と野獣」マルコ1章12~15節

 

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

マルコ1章13節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。3月2日(水)から受難節が始まっています。改めてレント・受難節とは何かというと、キリスト教の伝統的な暦で、イースター、主イエスの復活の日の前の40日間を言います 。多くの教会ではこの期間をキリストの苦難、十字架を覚える時としています。そして40日間という期間は今日の個所から来ています 。

週報にも記載していますが40日間の間で転入会、バプテスマを準備する方、準備を始める方を特に歓迎する期間としようと思います。共にイエス・キリストの歩みを学び、クリスチャンとなる、この教会のメンバーとなる、その学びを受け付けています。希望される方はぜひご相談ください。

私たちにとっては誰かがバプテスマを受けること、転入会をすることは、私たちの信仰の仲間が増えることです。仲間ができることはとてもうれしく、また心強いものです。しかしクリスチャンになると私たちと同じ考え、同じ人間になるということではないでしょう。私たちは引き続き、それぞれ違う人間です。

私たちは同じことでも感じ方が違います。感じ方には間違いというものはありません。そして感じ方には正解もありません。同じようにこの交わりには間違いも正解もありません。だから私たちは、交わりによって相手を変えることを目的としていません。ただ共にいること、助け合う事、祈りあうことが目的です。ですから私たちはこの交わりに仲間が増えること、また異なるあなたが加わってくれることを心強いことだと思っています。どうぞこの交わり、信仰に加わってください。

また受難節はすでに私たちの教会に属しているという方にとっても、もう一度改めて信仰の決心をするのにふさわしい時でしょう。もう一度、この交わりの中で共に、主の道をスタートしてゆきましょう。

私たちは誰かに自分と同じになれということ、自分の一部になれということ、その力が戦争を引き起こすことを知っています。ロシアのウクライナ侵略はまさにそのような戦争でしょう。勝手に相手を敵とみなし、同じになるように迫り、一部とし、力でそれを押し付けようとしています。

私たちはそうではありません。私たちはそれぞれを大切にします。そして私たちはたとえ分かり合えない、自分に都合が悪い、敵と思える、そんな人とも、共に生きる道を探したいのです。み言葉がいつもそれを励ましてくれます。私たちは違っていても共に生きる、そのことを今日、み言葉から聞いてゆきたいと思います。

 

今日の聖書箇所を見ましょう。マタイ、ルカにはより詳しい説明があり、私たちはその様子を想像するかもしれません。マタイ、ルカではイエス様は霊によって荒野に導かれ、悪魔からパンや繁栄についての誘惑を受けます。そしてイエス様はその誘惑に勝利し、悪魔が離れ去るというのがマタイ・ルカの物語です。

どの福音書でも共通しているのは、バプテスマを受けると苦難がなくなるというわけではないということでしょう。でも私たちはみ言葉によって励まされ、荒野と思える場所でも生きてゆくことができます。それがクリスチャンとして生きるということでしょう。

今日はマルコ福音書の特徴、40日間特徴を見てゆきます。まず12節には「霊に送り出される」とあります。この「送り出す」という言葉は本来「投げる」「放り出す」という意味です。イエスはどうぞどうぞと導かれたのではありません。荒野に放り出されたのです。バプテスマを受けてまず、苦難に放り出されてしまったのです。

マルコ福音書には他の福音書に書いていないことも多く書かれています。まずどのような誘惑があったのか書いていません。パンの誘惑、繁栄の誘惑もありません。そして肝心のイエス様が悪に勝利する場面が一切書かれていないのです。マタイ、ルカにはサタンが離れたと書いてありますが、マルコにはサタンが離れたという言葉は見当たりません。もしかするとサタンはこの後もイエス様と共にいたのでしょうか。

一方、マルコにだけに記載がある事柄もあります。それは40日間、野獣と共にいたということです。イエス様は40日間どんなことを体験したのでしょうか。マルコによれば、イエス様はサタン・野獣をやっつけたのではありません。野獣を蹴散らし、勝利したとも書いてありません。マルコ福音書にはただ40日間「サタンからの誘惑があった」「野獣と一緒におられた」とだけ書かれてあるのです。

ここから示されていることは何でしょうか?それはイエス様がこの期間、自分を傷つける、自分の敵、悪者と思える者と一緒に過ごしたということです。それがイエス様の苦難の40日間だったということです。自分を傷つける人、気が合わない人、悪、敵と40日間も一緒にいるのは、なんという苦難でしょうか。

パンがない試練、富への誘惑も試練でしょう。でも、自分を傷つける、自分とは違う他者と共に過ごすことも、大きな試練、苦痛なのです。イエス様はそのように自分の敵と一緒に過ごす苦難を40日間味わったのです。そしてそこでイエス様は何をしたのでしょうか。マルコによれば相手を打ち倒したのではありません。そこでただ一緒にいたのです。

イエス様はこの後の15節で「神の国は近づいた」と言っています。「神の国」とは何でしょうか。「神の国」の反対は「私の国」といえるでしょう。私がすべてを思い通りにできる、支配できる場所、それが私の国、私の領土です。私たちはそのような場所を求めているのではありません。私たちは「神の国」を求めています。

イエス様にとって神の国が近づいたとはどんな意味でしょうか。この直前の様子から考えると、それは自分とは違う野獣と一緒に生きるという事でした。神の国とはマルコによれば、敵を打ち負かしたりすることではありません。異なる者が一緒にいるということなのです。自分と自分の敵と思える者が、争わず同時に一緒にいることが神の国なのです。イエス様の試練とはそのようなことだったのです。

その神の国が「近づいた」とあります。イエス様はこの異なる他者と共に生きることを「神の国が近づいた」と言ったのです。神の国とは、私の国ではありません。私の自由に思い通りになる場所ではありません。神の国は、神の願いが叶う場所です。それは、この苦難の様に、敵対する者が傷つけあうのではなく、共に生きる場所のことです。

私たちも荒野に神様の霊によって放り出されるでしょう。バプテスマを受けた後、そして毎週ごとに霊によって、嫌い、苦手、自分とは違うと思う人と出会う場所に放り出されるのです。そして私たちは苦労しながらも、そこで一緒に生きようします。でもそれが神の国なのです。

放り出される場所とは、苦しい、神様なんていないと思える所かもしれません。でもみ言葉が励ましてくれるでしょう。40という数字が私たちを励ましてくれるでしょう。モーセは40年間荒野をさまよいました。この40年間、神様はどこにいたのでしょうか。神様は確かにイスラエルの人々と共にいました。イスラエルの民とは「ここに神などいない」と感じましたが、神様は40年間確かに一緒にいたのです。

40という数字は私たちが自分と異なる人と出会い、共に過ごす時、神様は必ず共にいて下さることを象徴する数字です。私たちはそのように、神様と共にある苦難、異なる他者と出会う苦難に送り出されてゆくのです。違う他者と生きる苦難を私たちはいただきます。そしてそこに神様が共にいて、そこに神の国があるのです。

一人一人、そして教会も同じです。教会は地域活動を通じて、様々な人、自分たちとは違う人と出会っています。でもその出会いが大事です。そして教会は相手を変えたり、相手を打ち倒し、勝利するのではありません。多少居心地が悪くとも、共にいるということが私たちの役割、地域協働なのです。

世界も同じです。相手を自分の一部としようとし、都合の悪い者を殺そうとする戦争が起きています。私たちは敵をやっつけるのではない世界を求めています。居心地の悪い隣人とも共に生きること、それが神の国です。

イエス様の地上での苦難とは何も、十字架にかかったことだけではありません。異なる他者と生きる、その苦難も受難節で覚えたいのです。

そして最後にもう一つ、私たち自身をイエス様に重ね合わせる読み方に加えて、私たち自身をイエス様に敵対する者、私たち自身を野獣とする読み方もできるでしょう。私たちこそイエス様に従うことができない者です。イエス様の教えに反して、いつも傷つけあっている者です。私たちこそ野獣なのです。しかし神様はそんな野獣を殺し、罰するのではありません。神様は野獣である私と一緒にいて下さるお方なのです。そしてその場所を神の国としてくださるのです。

私たちの一人一人が、苦しいけれど、異なる他者と共に生きる、神の国となりたいと思います。そしてこの教会が、世界か異なる他者と共に生きる神の国になりたいと願います。私は他者が私と同じになること、私の国が実現することではなく、違っていても一緒にいることができる、神の国が実現することを願います。

今週もそのように私たちはそれぞれの場所へと派遣をされてゆきましょう。それぞれの荒野で、違う他者と出会い、苦労し、共に過ごし、それぞれの場所を神の国としてゆきましょう。神様は必ず共にいて下さいます。お祈りします。