【全文】「神は計画を変える」マルコ9章2~10節

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。マルコ9章2~3節

 

 

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に礼拝をしましょう。特に今日は礼拝に集い、また賛美を再開することができてうれしいです。久しぶりに声を合わせて賛美することができる恵みを感じています。

先週はお休みをいただきありがとうございました。また教会の働きに励みたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

今日から新年度に変わります。今年はいよいよ教会にとって大きな一歩を踏み出してゆく年になるでしょう。特に地域と共に働く、地域協働、こひつじ食堂の広がりを大切にしたいと思っています。地域と共に、地域の中で歩む、一緒に食べることを大切にしてゆきましょう。

私たちの始めた「こどもプロジェクト」は大きなうねりになってきています。私たちが自分の予定を変えて、他者のために動き出すとき、大きなうねりが起こりました。私たちは自分のためではなく、他者のために、特にこどもたちのためにこれからも歩んでゆきましょう。

新年度、新しい計画を始める前に確認しておきたいのは、物事を進めてゆく時には必ず紆余曲折があるということです。計画には浮き沈み、うまくいく時とそうでない時があるものです。

そして元の計画は必ず変更になります。問題が出てくるたびに、いちいち右往左往し、三歩進んで二歩も三歩も下がります。一つの問題を解決すれば、別の問題が出てきます。最後に完成した姿を見ると、最初の計画とは似ても似つかない、違うものになっていたということはよくあることです。

現状とは案外、いろいろなバランスがとれているものです。それを変えようとするとき、様々な場所でバランスが崩れるはずです。だから現状維持が楽です。でも一歩歩み出したい、これまでと違う一歩、できなかった一歩を歩みだしたいと思っています。「計画はコロナ次第で変わります」という事も増えました。教会の計画も、人生の計画もコロナ次第で、振り回されています。あえて良かったといえる事は、計画が変わることに慣れたことでしょうか。期待しすぎないこと、今できなくても必ずいつかできること、それを待つことができるようになりました。必ずできると信頼して待つことができるようになりました。

計画というのは直線的であっても、実施は柔軟な曲線のようなものになるでしょう。私たちが祈るのは、計画が私たちの考えた通り、まっすぐ直線的に実現されることではありません。この計画に神様の力が働いて、変えられて、私の計画が曲げられて、神様の計画が実現されてゆくことを祈りたいと思っています。

新年度、一人一人の人生の計画も残念ながら思い通りにはいかないこともあるでしょう。思い描いていたこと、一直線に描いた計画は、思っていたものとは違うものになるでしょう。でも変化を受け止めてゆくことが大事です。私の計画は実現しないかもしれないけれど、神様の計画が実現してほしい、そう祈って歩みましょう。

私たちの人生でも最後に目にするのは、最初に私が願っていたのとは違うものかもしれません。でも神様の計画はきっとそのように実現します。神様の計画が実現することを祈ってゆきましょう。そして計画が変えられる時、その中で神様がいつも共にいてくれることを忘れないでいましょう。

今日は私たちの人生には良いときも悪いときも、神様がいつも共におられることを見ます。そして神様は私たちの計画を変えながら、導いてゆかれることを見てゆきたいと思います。一緒に聖書をお読みしましょう。 

 

 

今日の個所は「キリストの変容」と言われる箇所です。3節でイエス様は、山の上で真っ白に輝きだします。その白さはどんな人間の力さえも超える白さでした。この場面は、イエス様の地上の人生で、もっとも神の栄光を受けている、まさしく輝いている瞬間と言えるでしょう。イエス様はイスラエルの偉大な預言者モーセとエリヤと話をしています。イエス様がただの人間ではない、神の子であるということが、示されています。

受難節にこの栄光に包まれるイエス様の姿を読むとまた違った印象を持ちます。それは、今日の場面はイエス様の地上の人生でまさしく最も輝いている場面ですが、イエス様の人生は紆余曲折の連続だったということです。

紆余曲折を図にすると次のとおりです。イエス様が最初に地上に生まれたのは貧しい家畜小屋でした。それは、神と等しい身分に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられ(フィリピ2:6-7)た出

来事でした。しかしそのイエス様は今日の場面で、山の頂に登り、偉大な預言者と並んで、神の栄光を受けています。そしてこの後、十字架にかかり、さらに復活をするのです。イエス様の歩みはこのように紆余曲折するのです。

この紆余曲折はすべて神様によって起こされた事です。家畜小屋も十字架も復活も、すべて神様が起こしたことです。そしてもちろん今日の変容も神様が起こしたことです。2節にはイエス様は「変わった」とありますが、ここは正確に翻訳すると「変えられた」という訳になります。このような表現を神的受動態といいます。神によって〇〇されるという表現です。イエス様は自分で変わったのではありません。神様から力を受けて「変えられた」のです。神はこのように人を変えるお方です。地上へと遣わし、変化させ、苦難をとおし、復活へと導くお方です。

そして神様は7節で雲の中から「わたしの愛する子、これに聞け」と呼びかけます。それは輝く姿を見たかどうかではなく、その言葉、聖書の言葉をよく聞けということでしょう。み言葉を聞きないさいと言われています。

変えられたイエス様は、山頂にそのままずっと留まったのではありません。この後イエス様は山を下ります。そして14節からは病気を持った人に出会ってゆくのです。そのように人間と苦難を共にしながら、十字架へと向かってゆきます。十字架に架けられて、どん底と思える無残な死に方をしてゆくのです。そしてその後にはイースター・復活があります。再び神の栄光を受けるときが来るのです。

このようにイエス様の人生は紆余曲折します。上下し、大きく揺れ動きます。それがイエス様の人生です。人間の計画が実現してゆくのではなく、神の計画が実現してゆくのです。私たちの人生も、教会の計画も紆余曲折してゆくでしょう。またコロナで何かが中止・変更になるかもしれません。もっとこひつじ食堂が広がってゆくかもしれません。私たちの計画も上下してゆくでしょう。神はそのように計画を変えて導かれるお方です。

今日、このような人生と計画が紆余曲折してゆくという場面でも覚えておきたいことがあります。それは、私たちの人生の紆余曲折の中にイエス様がいつも共にいるということです。一つ目の谷、イエス様誕生の出来事も、まさに神様が地上で人間と共にいるということでした。地上に生まれることによって、神様は私たちと共にいるお方になったのです。そして今日の個所からもそれを読みとることができます。イエス様は今日の場面によれば、一人で山に登ったのではありません。2節、弟子たちを連れて上ったのです。連れて行ったという言葉は聖書の言葉で、担ぎ上げること、運び上げることを意味します。弟子が一生懸命に登るのではかったのです。イエス様が弟子が引っ張って、連れて行ってくださったのです。神様が栄光の場所へと共に連れて行ってくださる、一緒に来て下さるのです。神様はそのようにして、人間にできないことを、計画にないことを見せて下さるのです。

この山頂の栄光は復活の栄光に似ているといえるでしょう。山頂の変容は、復活の先取り、予告ともいえるでしょう。神様は人間がたどり着けない、計画をしない事柄を起こすお方だということが示されています。私たちの知っている現実とは、違うことが神様の働きによって起こるのです。そしてそこへは神様が連れて行ってくださるのです。

イエス様の歩みをさらに追っていきましょう。9節には「一同が」山を下りるとあります。ここからわかるのは、その下り坂も弟子たちだけで行くのではなかったということです。イエス様は共に、山から下りてきてくださるお方です。それはイエス様がベツレヘムの家畜小屋に生まれてきてくださったことと似ているでしょう。人間の住むこの世界に、イエス様は私たちと共にいてくださる、下ってきてくださるのです。10節、弟子たちは下り坂の歩みで、論じ合いました。私たちが今見た栄光は何だったのだろうか、復活とはなんだろうか、意見を言い合いながら、山を下ったのです。私たちもそのように歩みましょう。つらいことが起こる時、人生の下り坂のとき、計画がうまくいかないと思うとき、神様はどんなお方なのか、互いの言葉を聞き合ってゆきましょう。その先にはきっと希望があるはずです。

このようにして神様は私たちと共にいて下さるお方です。人生の紆余曲折の中で共にいて下さるお方です。そして神様は、私たちの思う計画を変えるお方です。神様ご自身の計画を実現されるお方です。私たちの人生は、私たちの教会の計画は一直線に実現するのではないでしょう。神様が計画を変えるでしょう。

神様が私たちに与えた道はグネグネと曲がっている道です。良いことも悪いこともあるでしょう。一直線ではないでしょう。でも最後に希望があること、その時までずっとその道をイエス様が一緒にいて下さること、そのことを忘れないでいましょう。神様は私たちの思い描く計画を変えるでしょう。そして私たちと共にいて下さるでしょう。そのことを覚えてそれぞれの1年を歩みだしましょう。お祈りいたします。