【全文】「十字架に向かう神」マルコ14章32~42節

イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」マルコ14章33~34節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝ができることをうれしく思います。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声、泣き声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。私たちは受難節の中の受難週、イエス様が十字架へと向かってゆく姿を覚える時を迎えています。

そして毎日ウクライナのニュースに心が痛みます。特に心が痛むのは、戦闘機やミサイルが狙っているのは、軍事施設ではなく幼いこどもや、病院にいる人を標的にしていることです。こどもたち、病院にいる人たちが戦争の中に置かれた恐怖を思うと、押しつぶされるように心が痛みます。

ウクライナでは自分の死を目の前にして、眠ることができない人がいるでしょうか。死の恐怖の中で、祈る人がいるでしょうか。私たちはそのような恐怖を感じている人と同じ世界に住んでいます。彼らが恐怖で眠れない時、私たちは毎日静かに眠っています。私たちの肉体は弱いものです。祈りが続かないものです。しかし今は、祈りたいと思っています。イエス様が待っているようにと言ったあの時は寝てしまったけれど、今私たちは現実をしっかり見て、祈り続けたいと思っています。

私たちもこの戦争に恐怖を感じています。それは次は私に爆弾が飛んでくるかもしれないという恐怖ではありません。私が今、もっとも恐ろしいと思うのは、人間はこのような戦争を起こすことができるということです。人間とはこのように人間を殺すことができるのかということに驚き、恐怖を覚えています。戦争の恐ろしさとは、人間が戦争によって、このように人間を殺すことができるということです。戦争を起こす人間そのものに恐怖を感じます。

このような戦争を見る時、私たちはいつも神はどこにいるのか、神は今何をしているのかを問いたくなります。いったい今神はどこにいるのでしょうか。早くこの戦いを終わらせてくれないのかを問いたくなります。

しかし神様はまだ今日もこの戦いを終わらせてはくれません。神様は沈黙しておられます。私はそこにも恐怖を覚えます。人間がどんなに残酷な戦争をはじめても、神様は止めて下さらないのです。私たちがどんなに平和を祈っても、神様は沈黙しておられるのです。そのような中で、神様がどこにいるのかを聞きたくなるのです。神様はこの状況に沈黙している、神様はいないのではないかと恐怖を感じるのです。

一方、今日の個所から思い出すことがあります。それは、私たちの神様は苦しみのただなかにおられる神様なのだということです。私たちの神様は、苦しみもだえ、祈る神様なのです。神様は苦しみを避け、死を避けてゆくのではありません。十字架に向けて、ご自身から向かい、そのただなかにおられるのが、私たちの神様なのです。

私たちの神様は、私たちが「神はどこにいるのか」「神などいない」と思う、その場所におられます。その苦しみの中心に、神はいないと思うその中心に、神様はおられるのです。そのことを今日、覚えたいのです。そして神様がいる場所に、私たちも目を向けたいのです。苦しみのある場所、苦しむ人のいる場所に神様おられます。そこに心を向けたいのです。共に、目を覚まして祈りたいのです。今日の聖書箇所を一緒にお読みしましょう。 

 

 

今日の個所で、イエス様は33節ひどく恐れてもだえ始め、34節「死ぬばかりに悲しい」と語っています。私たちが従おうとする神様は苦しんでいます。神様はこのように苦しむお方なのです。でも、なぜイエス様はこの場面で苦しみもだえ、死ぬばかりに悲しむのでしょうか。実はその理由ははっきりしません。

弟子たちが眠っていて、一緒に祈ってくれないから悲しいというのは、この後の37節の出来事です。イエス様は弟子たちが眠ってしまった、祈っていない以前から、すでに苦しみ、悲しみを持っているのです。ですから弟子たちの弱さが、悲しかった、苦しかったのではありません。

ではやはり、自分が死ぬということが悲しかったのでしょうか。それももちろんあるでしょう。この後の十字架によって自分が死ぬということはとても怖かったのでしょう。何度も自分は死ななければならないと語り、その運命を知っていたとしても、それは近づけば近づくほど、もだえ、苦しむほど恐ろしかったでしょう。

しかし今日私はイエス様の苦しみは、ただ自らの死の恐怖や、孤独だけではないと思います。自分の死や、孤独だけがこの悲しみ、恐怖の原因ではないでしょう。その悲しみは個人の痛みではなく、もっと深い痛みであったと思うのです。イエス様の悲しみをもっととらえたいのです。

おそらく、イエス様の深い悲しみは、この死が一人の人間の死ではないということと関係するでしょう。これから起こる死は、神に最も愛された人の死であり、御心にかなう人の死であり、救い主として地上に遣わされた人が殺される死です。それは神の子の死です。神ご自身の死でした。

十字架が目前に迫っている今、人間は神の子を殺そうとしています。神を殺そうとしています。人間にはそのようなことができるのです。人間は戦争であのような残酷な攻撃ができるように、神をも残酷な十字架につけることができるのです。イエス様はそのことに恐怖を感じたでしょう。自分が殺される、仲間は祈ってくれないということ以上に、人間が神の子さえも、救い主さえも殺そうとしている、その人間に恐怖を感じたでしょう。

イエス様は人間の身勝手さ、残酷さに恐怖を感じているのではないでしょうか。人はこのように残酷になることができるのです。人間が殺すことができるのは、人間だけではないのです。人間は神すら殺すことができるのです。人間とはそのように、恐ろしい存在です。イエス様はその人間の罪の大きさを感じ、ひどく恐れてもだえ始め、死ぬばかりに悲しんだのでしょう。そして、もう一つイエス様が恐ろしいと感じたことがあったと思うのです。それはこの状況になっても、神様が何も語らないということです。恐ろしいことに神様はイエス様の祈りに対して、ずっと沈黙をしているのです。イエス様は36節で苦しみを取り除いて欲しい、でも御心が叶うようにと祈っています。イエスは神様に必死に祈りました。地面にひれ伏してまでも祈りました。神の御心が叶うようにと祈ったのです。

しかし神様はイエス様に何かを応えたのでしょうか。今日の個所には神様の発言は記されていません。神様はひたすら沈黙を続けてゆきます。その沈黙は十字架までずっと続きます。イエス様が「わが神、わが神、なぜあなたは私を見捨てるのか」そう叫んだときも、神様の声は聞こえませんでした。神様は沈黙しておられたのです。

イエス様がもっとも恐ろしかったのは、神様がずっと沈黙をしていることだったのではないでしょうか。大きな困難が迫っている。でも私に向けて神様は直接話しかけたり、救い出したりしてくれないのです。神様これでいいのでしょうか。これが御心なのでしょうか?その問いに神様は答えないのです。そして同じように、私たちも神様の声を聞いたりすることは少ないでしょう。

では神様はいないのでしょうか。どこにいたというのでしょうか。私たちは知っています。神様は十字架の上にいたということを知っています。神様はもだえ苦しみ、死んでゆくものとして、十字架の真ん中におられたのです。私たちはそのことを知っています。

神様はそのようにして沈黙し、苦しみます。神様は沈黙し、その苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、十字架で死んでゆくのです。神様の声は聞こえなかったでしょう。

でも神様は確かにそこに、十字架にいたのです。それが私たちの神様です。私たちの神様は苦難の時、恐怖の時、痛むとき、声はしなくても、共にいる、その苦しみの真ん中に共にいるのが神様なのです。十字架はそれを表しています。

今、私たちの世界で、最も痛み、もっとも恐怖を感じているのはウクライナの人々でしょう。人間は残酷です。神様はどこにいるのでしょうか。神様の声と業で戦争が止まらないでしょうか?それは今日まで起きていません。

しかしそのような現実にあって、神様はどこよりも、ウクライナの人々と共におられるでしょう。ウクライナの攻撃された病院のがれきの下におられるでしょう。戦争に恐怖を感じ、傷ついたこどもたちと共におられるでしょう。未来を見渡せなくなって悲しむ人々と共に神様はおられるでしょう。戦争の中で神様はどこにいるのかと叫ぶ時、その真ん中におられるでしょう。

神様はそのように苦しみのただ中におられ、共に苦しみもだえ、あるいは共に死んでゆくお方です。声は聞こえなくもと、神様はそこに確かにおられます。それがイエス様の十字架が示していることです。

一方、神様がいない場所があります。それはどこでしょうか。それは墓の中です。神様は墓の中にはおられません。墓にとどまらず3日後に復活をしたのです。それは地上の悪や罪、人間の残酷さが、勝利しないことを示しています。

神様はもだえ苦しみ、死んでゆく命を、蘇られせるお方です。命は墓に閉じ込めておくことができません。戦争は、暴力は人を殺すことができない、命は永遠に続く、そう神様は示したのです。

神様はこのように、沈黙しながら、苦しみもだえ、そして苦しむ人と共にいるお方です。苦しむ私たちと共にいるお方です。私たちもそうありたいのです。私たちも苦しいけど、苦しい人に目を向けてゆく、目を覚まし祈ってゆきたいのです。

今日の最後の個所42節でイエス様は「立て、さあ行こう」と言います。イエス様の目的地は十字架です。「十字架にさあ行こう」と、イエス様は弟子たち、私たちに語っています。十字架に行こう、それは共に苦しみの道を歩もうということでしょう。そして苦しみを感じている人に目を向け祈るということでしょう。イエス様は立って、十字架に行こうと促しています。私たちはその主イエスに従い、目を覚まし、祈り続けましょう。お祈りします。