【全文】「調理で元気にする神」マルコ1章29節~32節

 

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした

マルコによる福音書1章31節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月・来月はこひつじ食堂から見えてきた福音を共に分かち合ってゆきたいと思います。先週は5000人の食事とこひつじ食堂と主の晩餐の共通点を見てきました。今日はボランティアさんとの関りから、神様が私たちにどのように力を与えて下さるのかということを見てゆきたいと思います。

こひつじ食堂にはたくさんのボランティアの方々が集まっています。先日は旗が立っているのを見てボランティアに加わってくださる方もいました。多くの方は、平塚市の商工会議所青年部(YEG)が作ってくださったホームページを見て、平塚教会のボランティアに応募をしてくださっています。

ボランティアに加わる方には1時間程度、趣旨説明の面談をしています。これまでに20名近くの方々と面談をしました。面談の最後ではボランティアさんが、こひつじ食堂を手伝おうと思ったきっかけや動機を教えてもらっています。ボランティアの方々の動機は本当にさまざまです。

Aさんはお母さんの介護のために最近、お仕事を退職されました。家での介護が続く日々に煮詰まっていました。本当は仕事をしたいと思っているのだけれど、介護のことを考えると、確実な曜日や時間が決められず、働くことができなかったそうです。そんな時にこひつじ食堂のボランティアの募集を見て、自分が行ける時だけのボランティアならできる、そう思って連絡を下さいました。

Bさんは障がいをお持ちで、なかなか就職をする自信が出ないそうです。でもその日の体調が良い時だけ、月に1・2回だけでいいなら、自分にもできると思って、ボランティアを始めたいと訪ねてこられました。この方はお料理が得意で、本当に助けられています。教会の包丁を研いでくださり、よく切れるようにしてくださいました。

Cさんはシングルマザーの方です。お子さんが大きくなって、ようやく手が離れてきたそうです。これまで本当に育児と仕事の両立に追われてきたと教えて下さいました。やっとこどもも大きくなって自分の時間ができた、さあ何かしたいと思った時に、こひつじ食堂の存在を知ったそうです。私が大変だったあの時にもこんな食堂があったら良かったなぁ。そうだこの食堂を手伝ってみよう。そう思ってボランティアに応募して下さったそうです。

いろいろな動機があるものですが、どれも「何かしたい」「誰かのためにしたい」そんな気持ちから手伝って下っています。そしてとても活き活きと、笑顔で手伝ってくださっています。

それぞれの方が、決して楽ではない時に手伝ってくださっています。きっと人生の中で、大変な時にも関わらずボランティアをしたいと、言ってくださっています。逆にボランティアさんに少ないのは、今時間にも体力にも余裕があるという方です。そういう方はボランティアではなく、一般的な就職をするのでしょうか。私たちのボランティアさんは私も含め、決して強くたくましい人ばかりではありません。不自由や痛みを経験したり、悩みを抱えた人ばかりです。でもだからこそ、人一倍、誰かのためにこの働きに加わろうとする気持ちはある方たちです。食堂のこの1食は、地域のみんなの、そんな思い、小さな力が少しずつ集まってできています。

地域の人の多くが、誰かの力になりたいと願っていると知りました。そして誰かのために働く、手伝うこと、それ自身がその人の活力になることを知りました。教会は何かを提供するのではなく、教会と言う場所が、やりがいと、力を出せる場所となっているとことをうれしく見ています。教会で活き活きと働いてくれることをうれしく思います。

これはきっと神様の働きでしょう。神様は見えない力で一人一人を教会に引き寄せて下さっています。神様が、教会で体を動かすように招き、一人一人を元気にしてくださっています。神様は調理するということを通じて、みんなを元気にして下さっているのです。そして神様はそれを食べる人も元気にしてくださっているのです。

今日の聖書を読みたいと思います。高熱で立ち上がることができない女性がいました。その人はイエス様によって癒され、立ち上がることができました。そして立ち上がった後を見たいのです。彼女は立ち上がるとすぐに、他者のために働こうとします。私はこの姿がボランティアの人々に重なります。イエス様はそのように人々に活力を与えてくださるお方です。今日はそのことを見てゆきましょう。

 

今日の聖書箇所を見ると、ある女性がいました。彼女は熱にうなされています。でも彼女の周りには優しい人がたくさんいました。彼女を心配し、その病が癒されるように願い、具体的に行動を起こす人、祈ってくれる人が周囲にたくさんいたのです。その中の一人が、イエス様なら彼女を助けてくれると信じました。そしてイエス様に話をしたのです。

イエス様はそのような場所に、イエス様の方から来て下さるお方です。女性はいのちからがら、藁にもすがる気持ちでイエス様を訪ねたのではありませんでした。いちばんしんどい時、仲間が祈り、イエス様が来てくれたのです。そばで手を握ってくださったのです。

私たちも熱を出すときがあるでしょうか。その時きっとイエス様は私たちの心に来て、共にいて下さいます。手を握ってくださいます。あるいはもっとこのことを広く解釈することができるでしょう。私たちの人生にも高熱を出しているような、しんどい時期があるものです。人生で立ち上がれない、食事がのどを通らない、眠れない、混乱し、誰かの助けが必要、そのような時期が人生にはあります。

その時、イエス様は私たちを訪ねてくださるお方です。私たちの手を取って癒してくださるのです。そして私たちがもう一度立ち上がることができるようにして下さるのです。体調を守り、立ち上がる気力、活力をイエス様がくださるのです。

今日の立ち上げられた女性の続きを見ます。女性は31節すぐに「もてなした」とあります。これはもともと「食事の提供をする」「給仕する」という意味の言葉です。聖書では多くの場合、イエス様に「仕える」という意味で訳されます。しかし男性だったら「仕える」と訳されている言葉が、女性だと食事を「もてなす」と訳されます。これは女性は家庭で、男をもてなすものだという考えに基づいた発想・翻訳です。新しい翻訳では男でも女でも、仕えるに修正されています。しかしもちろん、仕えることの中には、食事を作り、運ぶことが含まれます。彼女は「仕えた」のですが、料理をふるまったかもしれません。むしろ私は料理でもてなす彼女の様子を想像します。

こひつじ食堂を通じて、私は誰かに料理を作り、手渡すことの喜び、あふれてくる活力を知っています。きっと彼女は活き活きと料理をしたのではないでしょうか。私はこの物語をさっきまで熱にうなされていたのに、治ったらすぐに誰かのために働きたくなる女性の話と読みます。物語はこうです。ある時、いつも元気なあのおばちゃんが高熱になりました。近所の人、周りの人、教会の人がみんな心配しました。そして信仰のある一人がイエス様に祈りました。するとイエス様がその人を訪ねて、そばに行き、手を握り、祈り、癒したのです。

するとどうでしょか。そのおばちゃんは早速起き上がってしまいます。みんなに何か作って食べさせるんだと言いだします。周りはいくらなんでも、もうちょっと休んだ方がいいと止めたでしょう。でもおばちゃんは、絶対作ると言い張ります。みんなはしょうがないので作ってもらうことにしました。だってあのおばちゃん、いつもみんなに料理を作るのが、本当に楽しそうだから。誰かのために働くこと、働けることで、おばちゃんがもっと活き活きとし、元気になるのを知っていたのです。みんな心配しながらも、その料理をおいしく食べたでしょう。治って良かった、またおばちゃんの料理が食べれて良かったと言いながら、笑いあったでしょう。

そういう事がここで起きたのではないでしょうか。そういうことをイエス様が、ここで起こしたのではないでしょうか。イエス様は病や弱さを持っていた人を、起き上がらせました。そして、また元気にさせ、活力を与え、またみんなのために仕える人に変えた。それがイエス様が起こした奇跡ではないでしょうか。熱はしんどかったけど、熱を出す前よりももっとみんなとの関係、イエス様のとの関係は深くなりました。イエス様はそんな奇跡をここで起こしたのではないでしょうか。

イエス様は私だって誰かのために、何かしたい。体と時間の許す限り、誰かのために生きたい、そんな女性の願いをかなえ、立ち上がらせ、働く者とした。私はこひつじ食堂を見ていると、そのように感じます。

今日私たちは聖書を見ました。神様は苦しいとき、私たちを訪ねて下さるお方です。手を握り祈ってくださるお方です。私たちもそのように、苦しむ人がいる時、共に歩み、神に祈りましょう。そして神様は傷と苦しみから、私たちを癒して下さるお方です。もう一度立ち上がらせてくださるお方です。そして神様は私たちをもう一度活躍できる、誰かのために働けるようにしてくださるお方です。誰かのために祈れる者としてくださるお方です。誰かのために生きる者としてくださるお方です。私たちに生きる活力をお与えくださるお方です。そして神様はもう一度、私たちを強く結びつけてくださるお方です。私たち、この神様を信じましょう。共に従ってゆきましょう。力をいただき、誰かのために働き、祈ってゆきましょう。お祈りします。