【全文】「断食か、食堂か」マルコ福音書2章23節~28節

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。     マルコによる福音書2章27~28節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今月・来月とこひつじ食堂から福音を聞いています。先日4月15日(金)は慌ただしい一日でした。お弁当を124食販売しました。特に忙しかったのは、午前中はいただいたタケノコのあく抜きがあったこと、午後は120人分のホイコーローづくりでした。

さらにこの日、特別忙しかったのは、4月15日(金)がキリスト教の暦では、受難節の「受難日」であったからです。イエス様が十字架にかけられ死んでしまったことを覚える日です。「聖金曜日」とも言われます。多くの教会ではこの日の夜、受難日祈祷会を持ちます。以前私のいた教会では、ろうそくの明かりで聖書を読み、十字架のイエス様を追いながら、ろうそくを1本ずつ消す「消灯礼拝」を持ちました。受難節は別名レントとも呼ばれます。レントはラテン語で「断食」を現わす言葉です。日没まで食事を抜いて、イエス様の十字架の苦しみを私たちも感じようとする期間です。本当に断食を行う人はあまりいませんが、この期間は何かを我慢する、例えばコーヒーを飲まない、カフェインを取らないといったことをするクリスチャンは多くいます。

私たちの教会でも受難日祈祷会を持ちました。食堂を中止することはできないので、午前の仕込みと、午後の調理との間に持ちました。本来この期間はレントであり、断食の期間です。にもかかわらず私たちは、120人のお弁当を販売するために、朝から夜まで働いたのです。多くのクリスチャンが食べること、飲むことを控え、祈っている日です。受難日、聖金曜日です。その聖なる日に私たちは一体何をしているのでしょうか。いつも祈祷会が行われている部屋では料理が作られています。礼拝する会堂には近所の人が集まり、お弁当が販売され、おまけとしてコーヒーが配られています。よく考えると、この教会は何をしているのかと恐ろしい気持ちになります。聖なる日に、聖なる場所で、なんということでしょうか!レントの聖金曜日に、食堂をするという意味を考えさせられます。私たちの選択は正しいのでしょうか。

私たちの選びの意味は、誰かのために何かを「する」ことの大事さを現わしているのではないでしょうか。何かを我慢して、一緒に苦しみを味わうだけでは何も変わらないのです。その痛みを知ったならば、状況を変える、他者を助けるための行動を起こすことが大事です。聖なる時間は大事です。手を止め、足を止め、祈ることは大事です。でもそれをしているだけで、何かをした気持ちになってはいけないと思います。宗教は特にそのような危険があります。礼拝すると他者の痛みに目が向くかもしれません。気分は落ち着くかもしれません。でもそこで終わってしまうことがあります。祈って気分が落ち着き、その後、行動を起こさなくても良いと思ってしまうことがあります。誰かの必要に応えることを忘れてしまうのです。

私たちは聖なる金曜日に、朝から働き、祈り、午後また働きました。それが私たちの聖金曜日の過ごし方でした。そうですこの聖なる体は、誰かのために使う時、本当に聖なる体となるのです。この聖なる会堂は、誰かのために使われる時、本当に聖なる会堂となるのです。私たちは礼拝するだけではなく、人々のためにできることをしてゆきたいのです。この体を、この会堂を、他者のために使いたいのです。それが私たちが聖金曜日に食堂をする意味ではないでしょうか。

ちなみにその日の13時からの受難日祈祷会は多くの方が集いました。私たちはいっぱい祈り、いっぱい礼拝する。そして地域のために、隣人のためにいっぱい働く。そんなことが凝縮された1日だったと思います。

今日は祈り、礼拝することの大切さを覚えます。そしてそれぞれのできることを働いてゆくことの大切さを覚えます。神様は私たちに、今日祈り、明日からまた善き行動を起こすように促している、そのことを見てゆきたいと思います。ご一緒に聖書を読みましょう。 

 

 

 

今日の聖書箇所を読みましょう。今日の聖書の個所では安息日が問題になっています。今でもユダヤの人々の一部は安息日を守ります。多くの人が安息日・土曜日は働かず、礼拝に行ったり、家で家族と過ごしたりします。さらに厳格な人は、安息日にはあらゆる作業・労働をしません。例えばエレベーターのボタンを押さない、スマホも使わないという人もいるそうです。しかしよく言われる、凝り固まった形式主義という批判はまったくの的外れです。律法を他者批判の道具にしてはいけません。彼らはその日を大切に守っています。現代ならなおさらこの日は大事です。スマホをしない日、しなくてよい日はとは、とてもうらやましく思います。

もちろん律法より命が優先されます。安息日でもお医者さんは働きます。命にかかわることは、なにより優先されます。私たちキリスト教では日曜日が安息日にあたります。他の事はせず、礼拝に集う日として、聖なる日として、私たちも安息日を大切にしていると言えるでしょう。

本来、安息日は1週間に1度、あわただしい日常から離れ、休み、神様からもう一度、生きる力をいただく日です。しかし、今日の聖書箇所24節を見ると、ある人がまた安息日を誰かを批判する道具にしています。安息日は本来、礼拝すべき日、神様から力をいただく日です。しかしこの人たちは違いました。彼らは戒律を破っている人がいないか、あら捜しに出かけたのです。

聖書には旅人が麦畑の麦を食べるのは許されるとあります 。お腹の空いた旅人は畑の麦を勝手に食べることが許されたのです。本来律法とはこのような他者への慈しみのためにありました。命を守るために多くの律法がありました。

しかしこの人たちはそれを批判の道具とします。麦をつまんだ事を、安息日に麦を刈り取る労働だ、律法違反だと言いがかりをつけたのです。そしてその批判は当事者の弟子ではなく、イエス様に向けられました。

イエス様はその人たちにダビデの逸話を話し始めます。この話はサムエル記上21章に出てくるエピソードです。ダビデという人が、王様から命を狙われて逃げる時、おながが空いて、神殿を訪ねました。そこにいた祭司は供えてあったパンを分かち合ったという話です。そのパンは本来、祭司しか食べることが許されていない、聖なるパンでした。しかし祭司はダビデとそれを分かち合ったのです。祭司にとって供えのパンは聖なるものです。しかしそれをダビデと分かり合いました。それは良いことをするのは物や、日時を選ばないということを示すでしょう。必要としている人と分かち合う事、それをしてはいけないもの、日、時、場所はないということです。どんな時でも、どんな場所でも、慈しみの分かち合いは許されるのです。

この個所でイエス様は、戒律を守る、何々をしないという事だけでなく、何をするかに注目をさせます。してはいけないことだけではなく、すべきことに目を向けさせます。私たちは日曜日、礼拝をします。他の事をしません。日曜日は仕事や用事を入れず、予定を調整し、礼拝に参加します。しかし大事なことは何をしないかだけではありません。何をするか、すべきことをするということも大事でしょう。

 

私たちは1週間の始まりの日曜日を、祈り、礼拝することから始めます。それは変えません。守り続けます。そしてその1週間、私たちは何をすべきでしょうか。善き事をしたいのです。今日、たくさん祈り、1週間を始めましょう。そしてこの1週間、誰かの悪い箇所を探すのではなく、私たちはいままでとは違う、善き事をしたいのです。

27節に「安息日は人のためにある」とあるのはそのような意味ではないでしょうか。安息日は誰かを悪者にするスタート、悪者を探すスタートではありません。安息日は人のために善き事を始めるためのスタートです。人のために何か行動を起こす、そのスタートです。私たちはこの安息日をスタートに1週間、何か善き事をしたいのです。すべきことをしたいのです。人のために何かしたいのです。人のお腹と心が満たされるような何かをしたいのです。今日いっぱい祈り、その1週間をスタートしたいのです。

私は受難日・聖金曜日のこひつじ食堂通じて、何をすべきかを問われました。断食なんてしなくていいということではありません。祈らなくてよい、礼拝しなくてよい、善い事をしていればよいのではありません。礼拝と祈りは誰かの心、痛みを想像するために必要なのです。祈りと共感が必要なのです。神様からの力が必要なのです。でも私たちはそれだけではありません。そこで終わりません。痛みをもった人々と具体的に共に分かち合うのです。善き事を行うのです。私たちは、祈りと行動のどちらかだけを求められているのではありません。祈りつつ、そして善き事を行うことが求められているのではないでしょうか。だから受難日に祈りつつ、働くのです。私たちがこの体、あるいはこの会堂を、祈りの場として以外に、どんな善い事のために使うかということはとても大事なことです。27節の「安息日は人のためにある」とは、安息日は私のためにあるということです、そして安息日は他者のためにあるということです。そしてその安息日は主イエスのものなのです。

聖なる会堂、聖なる体が祈り、他者のために使われる時、本当に聖なるものとなるのです。私たちはこの安息日からスタートします。神様から力をもらい、他者のために、善き事のために働く1週間を始めます。私たちはこの礼拝から、それぞれの場所へと派遣されましょう。そしてこの会堂でまた分かち合ってゆきましょう。お祈りいたします。