【全文】「誰でも歓迎する食堂」マルコ7章24節~30節

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 マルコ7章27節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。特にこどもたちに関心を寄せて、礼拝し、様々な活動をしています。今日もこどもたちの声を聞き、感じながら共に礼拝をしましょう。今月、来月と「こひつじ食堂」から聞こえてきた福音に目を向けています。「こひつじ食堂」はこの会堂で行われている食堂で、1食200円で、誰でも利用できる食堂です。

全国には6000以上のこども食堂があります。こども食堂といっても、8割が子どもも高齢者も、誰でも参加できる、地域交流の場として運営されています。皆さんの家の近くにもきっとあるはずですから、訪ねてみてください。多くのこども食堂は、子どもの貧困問題に強い関心を持って始まりました。そのため、子ども食堂と聞くと、貧困の子供が行く場所というイメージがついてしまっています。ですから私たちは「こひつじ食堂」と名付けました。「こども食堂」と呼ばないのは、本当に誰でも歓迎する食堂だからです。こひつじ食堂はだれでも来ていい食堂です。貧しい人に限定しません。そもそも困っている人、貧しい人の定義は難しくなってきています。コロナで全員に10万円が配られた時代です。全員困っているから配られたのです。困っている人を探す必要はありません。私もあなたもみんな困っています。

そして食堂では、宗教の布教活動を一切していません。教会関係の方からはよく、チラシを配ったりしているか?食堂に来た方がどれくらい礼拝に来るのか?勧誘はうまくいっているのか?と聞かれます。私たちは勧誘を一切していません。この食堂の目的は隣人に仕えることであり、他者への奉仕で、自己拡大が目的ではないからです。だからこそ誰でも来て下さいと言えるのです。この食卓はすべての人に開かれているのです。所得や年齢は関係ありません。宗教や民族も関係ありません。悪人か善人かももちろん関係ありません。あらゆる条件を付けない、誰でも来ていい食堂です。

私たちは食堂で布教活動をしません。でも私はこの食堂は神様の愛をとてもよく表していると思います。食堂は神様の愛を証ししていると思います。私たちの食堂はすべての人が招かれています。おなかも心もいっぱいになれる場所です。違いがあっても一緒にいれる場所です。それは神様の愛をよく表している場所です。食堂こそ「神の国」と言えるのではないでしょうか。もちろんそこか教会に興味を持ってくれる人はいるでしょう。利用者の方は、教会の掲示物をよく読んでいます。

私たちはこのような格差の時代、経済的に苦しい時代、子育てがしにくい時代にあって、社会に強い関心を持っています。そしてだれでも来れる食堂を始めました。少しでも社会が変わって欲しいと願っています。そしてこれは私たちなりの証しです。ただの社会活動ではなく、私たちの証しです。神様の愛はすべての人に注がれていることを「こひつじ食堂」で証ししているのです。

今日の個所は私たちと重なります。この物語は、神様は社会とこどもたちに強い関心を持っておられること、そして神様の愛はすべての人に注がれることを示しています。今日の個所を一緒にお読みしましょう。

 

 

 

今日の個所の場面はティルス地方とあります。ここはユダヤ人よりも異邦人(外国人で宗教の違う人)がたくさんいる町でした。この母も異邦人でした。この母はイエス様を訪ねました。そして娘の病の癒しを、イエス様の足にひれ伏して願いました。しかしイエス様の返事は大変冷たい言葉でした。「まず、こどもが優先だ。犬は後だ」と言います。犬とは異邦人のことです。神様の働きはイスラエルの自国民が優先で、外国人は後だというのです。なんと民族主義的で、冷たい返答でしょうか!

しかしもう少し社会に関心をもってこの個所を読みたいと思います。場面となっているティルスは貿易によって豊かになった港町でした。いわゆる富裕層の町です。イエス様の宣教は貧しい地域が中心でしたから、ティルスに行ったということ自体、特殊な例と言えるでしょう。

ティルスは貿易で発展した町ですが、貿易をしていたのはイエス様が生まれたガリラヤ地方の穀物でした。要は穀物をガリラヤで安く買いたたいて、海外に売り飛ばすという商売です。そのようにして富裕層は生活をしていました。ガリラヤの人々は自分たち作物を安く買いたたかれ、貧しく暮らしていました。おかしいと感じますが、現代の世界の縮図でもあります。先進国は、貧しい国から安く大量に作物を買い付けます。貧しい国は貧しいままで、先進国は贅沢を続けるのです。それがガリラヤとティルスの関係でした。イエス様が27節で「子供」と言っているのはガリラヤのような貧しくされた地域のことです。そして「子犬」とはティルスのような、富を吸い上げ、搾取し、豊かになった地域のことです。イエス様が27節で言ったことは、まず貧しい国から穀物を安く買いたたくのを止めなさいということです。だからこそ、まず貧しくされている国への助けが必要だということを言ったのです。これはイエス様が貧しい人と共にいたという聖書の全体の姿とも重なります。

イエス様はこのように、社会に強い関心を持ったお方でした。豊かな街を見て、わたしもそうなりたい、すばらしいとは思わなかったのです。この豊かさの中で、誰か苦しんでいる人がいるはずだと感じたのです。それがこの冷たいように思える答えの意味です。

もちろん母親もただでは食い下がりません。28節の母は、「食べこぼしでもよいから、恵みをいただきたい」となんとか癒しを求めます。この母の発言は、貧しい国が優先され、そのあまりものを豊かな国が受け取るということです。イエス様が求めている、社会の在り方に呼応する発言でした。母の発言はさらに、大切なことを示していると思います。この神様の食卓が、ユダヤ人に限定されないはずだという指摘です。神様恵みは異邦人とか外国人とか異教徒にも、関係なく、すべての人に開かれているはずだと言っているのです。神様の食卓、神様の恵みはユダヤ人かどうか、キリスト者がどうかに関わらず、広がっていくはずだと訴えているのです。

このように、イエス様と母の会話には二重の意味があると言えるでしょう。一つは経済的な意味です。貧しい人が優先されることです。二つ目は神様の愛についてです。神様の恵みはユダヤ人だけに限定されないことを示しています。

イエス様は母の発言を、もちろん正しいと言いました。イエス様とこの母は、まず貧しい国が優先され、豊かな国はその後になるという世界観を確認しました。そしてもうひとつ、神様の恵みは民族や宗教を超えるということを確認したのです。そしてそれを確認するとイエス様は悪霊を追い払ったのです。

母の言葉がイエス様を変えたようにも見えます。母はイエス様に呼応して、世界の経済は変わるべきだと言いました。そして神様の恵みはユダヤ人だけではなく、すべての人に分かち合われるはずだとイエス様に訴えたのです。イエス様はユダヤ人が先だという部分について、自らの考えを変えました。神様も考えを変えるのです。

この物語は何を示しているでしょうか。イエス様が社会とこどもへの強い関心を持っていたという事を示しています。そしてこの物語は、すべての人に神様の愛と恵みがおよぶことを示しています。イエス様と女性の対話から、社会への関心と、神様のすべての人への愛が示されているのです。そこに神様の癒しが起こりました。

母がイエス様と出会い、対話し、こどもが癒された後、どのように生きたのかを想像してみましょう。想像力を持って読むなら、この女性はこの後、子ども食堂をはじめたのではないでしょうか。裕福な地域に生まれながら、病の子を持ち、子育ての大変さを知ったでしょう。イエス様と出会い、自らの裕福な暮らしがどのように支えられているかに気づいたでしょう。そして神様の愛はすべての人におよぶと強く確信をもったでしょう。この日から新しい生き方が始まったのです。そのことを誰かに伝えたい、表現したい、証しをしたい、そう突き動かされたとき、こども食堂を始めたに違いありません。ティルスに住むいろいろな人を集めて、どのような年齢、身分、所得の人も一緒に食事をしようと呼びかけたのではないでしょうか。誰かがパンくずを食べるのではありません。全員が神様のこどもとして、満腹できる食堂をティルスで始めたのではないでしょうか。

それはとてもよく神様のことを表す食堂です。メシア的食卓共同体です。地域にすばらしい証しとなったのではないでしょうか。私たちのしている「こひつじ食堂」とはまさにこのような食堂ではないでしょうか。私たちが社会に関心をもっており、その社会の中で神様の愛がすべての人におよぶ、食堂はそれを証ししているのです。

イエス様はこのように格差や不平等に反対をしたお方です。社会に強い関心を持っているお方です。そして、すべての人に恵があると、母とのやりとりでイエス様自身も変わったお方です。そして母も変わりました。私たち自身にもイエス様との出会いによって変化が起こるでしょう。イエス様に出会って私たちは証しをしたいと思うように変えられます。イエス様に出会い、豊かさを追い求めるだけではなく、社会に強く関心を持つように変えられます。そして神様がすべての人に食べ物、平和、愛を注いでくださることを知るように変えられるのです。

私たちはこの食堂で、地域に神様の愛を証しをしています。この食堂は神様の愛を豊かに表現した食堂です。この集まりにもっとたくさんの人、様々な人が集うことができるように、祈り、礼拝し、働いてゆきましょう。お祈りします。