【全文】「真ん中に招く神」マルコ3章1節~6節

イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

マルコによる福音書3章3節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に、声を聞きながら、礼拝をしてゆきましょう。今日はこの平塚バプテスト教会の創立記念礼拝です。この教会は1950年に創立され、72周年を迎えました。72年前にこの地に教会が建てられた時の思い、そしてずっと大切に守られてきた思い、変化を繰り返してきた思いを想像します。そしてそこにいつもあった主の護りに感謝したいと思います。

私たちはこの72周年の時、「こひつじ食堂」からの福音を聞いています。このこひつじ食堂は1食200円で誰でも利用できる食堂です。私たちはもっと食堂が豊かになるように修繕や建築をしたいと考えています。改めてこの教会の建築を見ると、礼拝のための会堂があって、その周りにトイレや分級室やこどもスペースがくっついている構造であることが分かります。私たちはまさにこの教会の中心である礼拝堂で、食堂をしているのです。

先日、食堂の様子をビデオに撮りました。ぜひ見てください。年齢や性別に関わりなく、いろいろな人が来ている様子が分かります。まず、こどもたちが座って食事をしているのが目に留まります。私たちはこどもを大切にする教会です。こどもを隅に追いやらず、中心にしてゆく教会、そのことがよく表されている風景でした。こどもたちは今、給食の際中は話してはいけない「黙食」をしています。だからここに集まって話をしながら食べるのが、楽しくてしょうがないのです。こどもたちがのびのびと、ニコニコしています。あの顔をみなさんにも見せたいです。

こどもたちは食べ終わったあと、こどもスペースで遊び始めます。この前は、こどもたちにはさみ将棋を教えて、いっしょにやりました。子どもたちが遊びに行くと、会堂に座っている中心はママになります。ママやパパにとってはこどもから少し目を離すことができる、安息の時です。ママ同士の会話も弾んでいます。最後にママたちが「これはママにとっても良い支援だ」と言いながら帰っていきました。よい安息の時となってよかったです。

ビデオには他にもいろいろな人が写っています。こどもたちを見守る温かいまなざしを向ける人がいます。食事を運びながら、いろいろな人に声をかけるボランティアさんがいます。

一人で来た人も写っていました。しかしよく見ると、いつの間にか誰かと相席になって、一人ではなくなっていて、話が弾んでいます。和やかで、にぎやかで、温かい空間、安息の空間となっています。

今日は創立記念礼拝です。私たちの教会が守られてきたことを感謝する時です。その日、教会の真ん中に何があるかを考えます。教会の真ん中にはイエス・キリストがいます。そして「こひつじ食堂」から見る時、教会の中心にはこどもや、子育てが大変な人がいます。一人で食事をする人がいます。教会はそんな人を教会の隅ではなく、中心に招きます。そしてそこでのびのびとした時間を過ごすのです。安息の時を過ごすのです。教会は、イエス様を中心とします。そしてこどもや、ママや、一人でいる人を中心に招きます。それが私たちの教会です。

今日も一緒に聖書を見たいと思いますが、今日はイエス様が誰を真ん中にしたのかを見ます。今日の話によれば、イエス様は手に障がいを持った人を中心としました。当時の社会では隅に追いやられてしまう人、そのような人をイエス様は中心に招いたのです。そのことを見てゆきましょう。

 

 

今日の聖書を見ましょう。今日の個所では、イエス様を会堂で待っている人々がいます。安息日という戒律で、一切の作業をしてはいけない日でした。遠くへ出かけたり、緊急でない治療はしてはいけない日です。そんな日に、人々は、あえて手に障がいをもった人を会堂に連れてきました。治って欲しいと願ったのではありません。人々は悪意を持っていました。イエス様が安息日という戒律と、癒しのどちらを取るのか、こいつを使って、見てやろうと罠にかけようとしていたのです。

非常に悲しいことに、人々から手の不自由な人への同情や、心配、励ましは一切ありません。人々はただ、自分たちの正しさを証明する「道具」として利用します。彼の苦労や不自由に耳を傾ける者はいません。人々の心は、そのような冷たい心、かたくなな心、硬い心でした。人の命に対する慈しみはありません。社会と会堂の隅に追いやり、一人にしておいたのです。

現代の社会も同じでしょうか。これでもだいぶましになったのかもしれません。しかし障がいをもった人が隅に追いやられるという状況は変わりありません。2000年たった今も弱い立場の人、助けを必要とする人が隅へ追いやられる社会は続いています。社会は、健康で、能力があって、お金がある人が中心とされています。そうでない人は、隅に追いやられ、小さくなって生きなければならない社会です。私たちの時代も同じです。

しかしそこにイエス様が現れます。そしてイエス様は3節で言います「真ん中に立ちなさい!」。イエス様はその人を立ち上がらせ、真ん中に招くのです。隅に追いやられていた人に、あなたは堂々と真ん中に立つように招くのです。彼は今まで隅に追いやられていました。彼はようやく招かれたと思ったら、誰かを陥れる罠・道具として招かれたのでした。誰も彼に目を止めようとしませんでした。

そんな時、彼が聞いたイエス様の「真ん中に立ちなさい!」という招きはどれほど、うれしかったでしょうか。この後、彼の腕が治るとありますが、声をかけられた時から、彼は大きな喜びを感じたのではないでしょうか。これまでずっと隅に追いやられていた自分が、直接声を掛けられ、立つように、真ん中に来るようにと言われたのです。それはまず彼の魂についた傷を、ボロボロにされた心の傷を癒したはずです。イエス様の呼びかけは、傷つけられた尊厳、人格を回復する呼びかけだったのです。その言葉をかけられた時、彼には安息が訪れたのです。

続いてイエス様は4節で「安息日に赦されるのは、善い事か悪い事か、魂を守ることか、殺すことか」と言います。イエス様はかなり両極端な選択肢を出します。魂は命とも訳せることばです。安息日は命を守る日か殺す日か、魂を守る日か殺す日か、二者択一です。ここでは中間の選択肢がありません。守りも、殺しもしないという選択肢はないのです。何もしないで様子を見る、事態を見守っていくという選択肢はないのです。今日の場面でもそうです。障がいをもった人がこのように利用されるとき、何もしないことは魂を殺すのと同じです。障がいをもっている人が隅に追いやられているのを見たとき、何もしないのは、その命・魂を殺すのと同じなのです。見殺しです。二者択一の問いは、何もしないことは、殺すことと同じだと言っています。

しかし4節の後半、それでも人々は黙っていました。誰一人言葉を発する者はいません。静寂と沈黙しかありませんでした。5節でイエス様は悲しんだとあります。そのかたくなさに激しく怒り、悲しみ、同情をしたのです。イエス様が悲しみを覚えたのは、もちろん不自由をもっている事だったでしょう。しかしそれ以上に、人々がそのことを利用し、隅に追いやろうとしたこと、助けることを訴えても沈黙し、何もしようとしないこと、それに深い悲しみを覚えたのです。そしてその時、奇跡が起きました。イエス様が「手を伸ばしなさい」と言ったのです。そうすると、不自由だった手から、不自由さが取り払われてゆきました。

6節には、ここからイエス様を殺そうと相談が始まったとあります。このことが、イエス様への十字架へとつながっていくのです。今度はイエス様が排除されようとします。殺され、隅に追いやられようとします。イエス様はそれを受けとめたお方でした。今度は自分が隅に追いやられる者となってゆかれたのです。

私たちは今日、創立記念礼拝を迎えています。今日、私たちの教会は何を中心にするか、誰を中心にするかが問われています。私たちはこれまでもそうだったように、社会の隅に追いやられてしまいそうな人を大切にしてゆきましょう。特に私たちは今、こどもに強い関心を持っています。そしてそこからその周りにいる人にも目を向けます。こどもや、ママ、パパ、一人で食事をする人に目を向けます。私たちの教会は、さみしいと思う人こそ中心に招きましょう。

そして社会の中で、沈黙せずにいましょう。何もしないことは殺すことと同じです。命と魂を守ることを具体的な行動として、証しとして、続けてゆきましょう。それは「こひつじ食堂」で、あるいはそれぞれの生活の中できっとできるはずです。すべきことがあるはずです。今日、その力を神様からいただいてゆきましょう。

神様は私たちに奇跡を起こしてくださるお方です。私たちのかたくなな心にも、硬くなった心にも、不自由な心にも呼びかけて下さいます。私たちの心にも「伸ばしなさい」と呼びかけて下さいます。聖書の言葉によって、私のかたくなな心がほどかれて、柔らかくなるように、呼びかけて下さるのです。

神様は、弱き私たちを、中心へと招いてくださるお方です。隅に追いやられ、寂しい思いをしている人を中心に招いてくださるお方です。そして私たちのかたくなな心をまっすぐに伸ばしてくだるお方です。私たちはこれからもこの教会の中心としてたくさんの方々を招いてゆきましょう。お祈りします。