【全文】「命をいつくしむ神」マルコ9章33~37節

 

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日も共にこどもたちの平和の足音を聞きながら礼拝をしましょう。

今月は平和について考えています。平和とはただ戦争が無い状態を指すのではありません。聖書の平和とはひとつひとつの命が大切にされ、輝いていることです。聖書の平和から、私たちのこの日本を見渡すと決して、平和とは言えないと思います。平和は命を大切にすることから始まります。命を壊すのではなく、愛し、育てることから平和は始まります。平和は命への慈しみをもつことから始まるのです。

先日、私は近所の方から、植物の苗をいただきました。それはどんぐりの種から芽が出た苗でした。ドングリが二つに割れて、そこから芽が出ている苗でした。どんぐりから芽がでているのを始めてみたので、とてもうれしい気持ちでそれをいただきました。

その方の自宅のお庭も見せてもらったのですが、そうするとアジサイの挿し木がたくさん並べてありました。アジサイの枝を切ってまた新しいアジサイの苗を作っておられたのです。お庭を見ていて、どんぐりの苗を見ていて、その方の命に対する姿勢、命に対して慈しみを持っていること、命に対するあたたかいまなざしを感じ、感動して帰ってきました。どんぐりは公園にたくさん落ちているけど、あのどんぐりは、本当はこんな素敵な命なのだということを教わりました。

そんなことを考えていると、どんぐりの背比べということわざを思い出しました。そのことわざの意味は「どれも代わり映えのしない、ぱっとしない者同士が競い合っている様子。突出した者がいない様子」という意味です。よくよく考えると、ひどいことわざではないでしょうか。本当はひとつひとつ違う命です。確かにそこから芽が出る命です。しかしその命と、命の小さな違いを見逃し、まるで見下して、笑っているようです。

どこかこのことわざは、自分はどんぐりとは違う場所に居て、上に立ち、二人を比較し、評価するという視点を持っています。2つを見下す視点です。そして大きな違いがないことを笑っているように感じます。でも、どんぐりは命です。どんぐりも競い合っていいではないですか。どちらも大した違いがないと言われるが筋合いはありません。同じ様に見えて本当は全く違うはずです。2つの命の小さな違いが大事なのではないでしょうか。どんぐりは、小さくて踏みつけられそうな命です。違いがない、個性がないと笑われる命です。私はそんなどんぐりをひろって育てる、命をはぐくむ者でありたいと思いました。捨てられてしまうどんぐりに命を見出し、温かいまなざしを注ぎたいのです。

命をはぐくんでゆくことが平和の始まりです。この命を大切に思うことが、平和の始まりです。競い合ってよいのです。私はこう違うということを、どんぐりの背比べをしても良いのです。

大事なのは何を競うかです。相手を自分の下に置いて、評価し、笑うこと、命に差をつけること平和ではありません。私たちはそうではなく、この命をどれだけ大切にできるのか、命への慈しみを競いたいのです。命を大切にする人を見て「ああ、私もあの人のように、あの人よりもっと命を大切にしたいと思う」そんな競い合いをしたいのです。

それがたとえどんぐりの背比べのような違いでも、私たちは少しでも命を大切にするまなざしをもって生きる、そのような群れになりたいのです。その命の慈しみから平和が生まれてくるのです。

今日は聖書で競い合う弟子を見ます。誰が一番、偉いかを競うどんぐりの背比べです。しかしイエス様はその競い合いを、この命をどれだけ大切にできるかという競い合いに変えるお方です。イエス様はどちらが偉いかを競い合う弟子に、この命を大切にする様を見せました。今日私たちはイエス様の命への慈しみ、まなざしを見てゆきたいと思います。聖書をお読みしましょう。

 

今日の聖書はマルコ9章33節~37節です。イエス様と弟子たちはカファルナウムのある家に滞在することになります。そこでイエス様が弟子たちに聞きます。「途中で何を議論していたのか?」弟子たちは口ごもってしまいます。帰り道で自分たちの中で誰が一番偉いかを決めようとしていたからです。自分たちに序列をつけようとしていたからです。

イエス様はそのような弟子12人を呼び集めて言います。35節「いちばん先になりたい人は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。ここで注目をするのは、イエス様は競い合うことはやめなさいとは言っていないことです。「いちばん先になりたいのなら」と、競い合うこと自体は否定しないのです。お前たちが頑張ってもどうせ、どんぐりの背比べだとは言わないのです。私たちは競い合ってよいのです。私たちには切磋琢磨という言葉があります。私たちは競い合い、励まし合い、お互いを高め合うことができるのです。

イエス様は「先になりたい者はすべての者の後になり、仕えるように」と言います。イエス様はまず「すべての人の後となるように」と言っておられます。後になるとはどんなことでしょうか。それは先を競うのではなく、後を競うということでしょう。競うのは、自分が先に行くことではなく、自分が後ろ行くことです。大事なのは後ろに目を向けてゆくことです。

後ろの人とは、どんな人のことでしょうか。集団について来れずに遅れてしまう人のことでしょうか。いつも後回しにされてしまう人の事でしょうか。早く走れない人のことでしょうか。他にどんな人が後になっているでしょうか。この世界で、私たちの住む町で、生活の中で、教会の中でどんな人が後になっているでしょうか?

イエス様は私たちにすべての人の後になりなさいと言っています。すべての人の後になるとは、いつも後回しになってしまう人たちに目を向け、手を取って共に歩んでゆくことでしょう。イエス様はそのことをする人が偉いと言います。先になりたいなら、置き去りにされてしまう命を大切にし、命をはぐくむことが大事だと言ったのです。それが「すべての人の後になる」という意味です。

そして36節を見ましょう。私にはこの個所、この中で誰が一番偉いかという競争に、イエス様も参加したように見えます。一番偉いとはどんなことかをイエス様ご自身が示したのだと思います。その様子が36節に書かれています。当時はこどもの命とは、今よりずっと大切にされない命でした。いつも大人優先で、後回しにされてしまう命でした。こどもの命は親の所有物だったのです。

 

イエス様はここでどんな人が偉いかを具体的に示そうとします。それは自分が先になることではありませんでした。イエス様が示したのは、いつも後回しにされてしまいそうな命をかえりみることでした。そしてイエス様の動作に目を向けましょう。イエス様はこどもの手を取りました。手をつないだのです。それはその命に対する慈しみであり、思いやりであり、連帯でした。いつも後回しにされてしまう命に、足を止め、温かいまなざしを持って見つめたのです。

さらにイエス様を見ましょう。次はこのこどもを人々の真ん中に立たせたのです。隅に、はじっこに、後ろに立たせたのではありません。人々の真ん中に立たせたのです。いつも隅に追いやられ、叱られ、後回しにされるこどもを、真ん中に呼んだのです。それがイエス様の命へのまなざしです。

さらにイエス様をみましょう。次はこどもを抱き上げます。こどもを抱きしめたのです。愛をもってその命を自分の腕の中に迎えたのです。この命を慈しみをもって迎えたのです。大切だ、大事にするよ、それが相手に一番伝わる行動を起こしたのです。

これがイエス様です。これがもっとも偉いお方の姿です。私には競い合うなら、こう競え、そう言っている様に聞こえます。この命をどれだけ大切にできるか競いなさい、そう言わんばかりに、こどもを抱きしめたのです。私たちもすべての命、その命を大切にするように競い合いたいのです。手を握り、真ん中に招き、抱きしめてゆきたいのです。

そしてイエス様は最後にこう言いました。「この命を大切にすることが、神様を受け入れる事だ。」「この命を受け入れる者は、神様に受け入れられる」そう語ったのです。もちろんそれは、こどもの命だけではないはずです。後回しにされてしまう命、見過ごされてしまう命、遅れて取り残されてしまいそうな命、大した違いがないと笑われる命、物のように扱われる命、踏みつけにされる命、イエス様はこのような命こそ、受け入れるお方です。命への慈しみを持つお方なのです。

私たちもそれぞれの命に目を向けましょう。命を大切にすることが、命をはぐくんでゆくことが平和の始まりです。どんぐりと笑われる命があるでしょうか。どんなに笑われても、それは命です。どこにでもあるような命かもしれません。でもそれは命です。イエス様はその命を大切にはぐくむお方です。イエス様はその命と手をつないで、真ん中にして、抱きしめて下さるお方です。それがイエス様の愛です。

私たちはどんぐりのように小さいかもしれませんが、背を比べたいのです。お互いがどうやって互いの命、こどもたち命、後回しにされてしまう命を大切にできるか競い合ってゆきたいのです。

平和はそこから始まります。殺すことの反対は殺さないことではありません。殺すことの反対は命をはぐくむことです。私たちは殺さないだけではなく、命をはぐくむことを大切にしてゆきましょう。それが平和を実現させてゆくはずです。お祈りします。