「イエス様は本当に優しい王様」ヨハネによる福音書 18章37節、19章19節~22節及び、マタイによる福音書26章74節~75節

ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。   ヨハネによる福音書 19章19節

 

有名なユヴァノ・ノア・ハラリはユダヤ人の歴史学者であり、哲学者です。ハラリは人類の歴史を動かしてきたものは3つあるといっています。『帝国主義』、『貨幣』、『宗教』です。イエス様の時代も、イスラエルはローマ帝国という帝国に支配・占領されていました。当時のユダヤ人は、この帝国主義から解放してくださる真の救世主を待望していました。この救世主は、ダビデ王やソロモン王のように強いリーダーシップで、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくれると期待していました。しかし、目の前に現れた救世主のイエス様はそのような力強さを持った方ではありませんでした。

ユダヤ人は自分たちの待ち望む救世主のイメージからかけ離れていることを理由に、イエス様を十字架につけてしまったのではないでしょうか。総督ピラトはイエス様の本質を見抜いていました。つまりピラトはイエス様を本気でユダヤ人の王と考えていたのです。そのことは、300年後に証明されます。ローマ帝国はキリスト教を受け入れ、キリスト教国になるのです。歴史学者のハラリも「不思議なこと」という言葉を使って、このことを表現しています。この説明は「本気でイエス様に聞き従った人々」と「神の計画」によってなったとしか言いようがないのです。一つの宗教が覇権帝国主義を凌駕したのです。彼こそ真の王ではないでしょうか。彼は武力という方法ではありませんでした。彼の武器は、愛と恵みでした。私は、キリスト教や教会が衰退する原因は、ずばり「人がイエス様に聞き従わない。」からだと思います。

私も4年前に、仕事を早期退職して、東京バプテスト神学校へ入学し、実家で両親の在宅介護を始めました。最初は信仰に燃え、仕えるものとして、イエス様に聞き従って、「私はできる。」と自信満々でした。しかし、両親の衰えが進むと、介護が大変になり、身体が悲鳴を上げ、自分を優先するようになりました。とどのつまりが、両親の介護度も上がり、自分では面倒を見切れない状態になってしまい、施設に預ける決断をしました。私は、あのペテロのように激しく泣きました。「私はあなた様の靴の紐を説く値打ちもないものです。」、と。しかしイエス様は、そんなダメ人間が大好きです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」彼は本当に優しい方です。

私たちは、イエス様に近づこうとしても、なかなか近づけないダメ人間です。また、世の中でもたくさん失敗や挫折を味わいます。でも、イエス様はそんな私たちに再び声をかけてくださり。私を愛しているか?と優しく聞いてくださり、私の羊を飼いなさいと言ってくださるのです。真の王であるイエス様が、今日も私たちを優しく取り扱ってくださるのです。帝国主義を凌駕するイエス様の方法は、この愛と恵みです。私たちも、この愛と恵みという方法で、再びイエス様の羊を探し出そうではありませんか。