【全文】「平和をあきらめさせない神」マルコ9章14節~29節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること感謝です。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちと共に、み言葉に出会ってゆきましょう。また特に今日はこどもが登場する場面です。このみ言葉を通じて、神様に出会ってゆきましょう。

1ヶ月間、平和をテーマとして宣教をしています。この教会は平和を祈り続けてきました。平和への祈りは、この教会が始まった時からの祈りです。長尾先生も川上先生も熱心に平和を祈った先生でした。教会はこのようにして、平和をあきらめずに祈ってきました。私たちの教会は平和をあきらめずに祈り続けてきた教会です。

そして同時に、私たちは平和への無力さを繰り返し感じてきたとも言えるでしょう。私たちが祈る間にも、たくさんの戦争が起きました。平和を祈っても、世界はなかなか平和にならないのです。私たちは戦争が起きるたびに、神様がいるのにどうして戦争が起こるのだろうか?神様は本当にいるのだろうか?そう神様を疑ってきた私たちです。特にウクライナの戦争に衝撃を覚えています。平和を祈っても、なかなか戦争は終わりません。しかし、それでも私たちは平和を祈ります。目を背けたい現実をしっかり見て、祈り続けてゆきたいのです。

平和を祈っていくことは教会の大切な役割です。憎しみや衝突に対して暴力ではなく、愛と和解、感謝すること伝えてゆくことが教会の役割です。殺すのではなく、命をはぐくむことを訴えるのが、教会の大事な役割です。私たちは争いが続くこの時代にあって、あきらめずに平和を祈ってゆきましょう。平和を訴えてゆきましょう。自分自身の平和、家族の平安、心の安定の祈りも大切です。でも私たちはそれだけではなく、世界の平和、東アジアの平和、この地域の平和、隣人の平和も祈ってゆきたいのです。自分自身の平和のためだけではなく、他者の、周囲の平和を祈ってゆきたいのです。

私たちが平和を祈り続けることができるのは、毎週の礼拝を通じて、み言葉を通じて、祈りへと導かれるからです。神様から希望をいただくから、私たちは平和をあきらめずにいられるのです。平和について祈るのをやめるようにする力、平和をあきらめさせようとする力こそ悪霊の力です。悪霊とは私たちに平和をあきらめろ、あきらめろと誘惑をします。戦争もしょうがないと誘惑します。私たちは悪霊に負けず、どんなときも平和を祈ることをあきらめないでいたいのです。

教会にはたくさんの、あきらめない祈りがあります。戸が開くまでたたき続けるような祈りがたくさんあります。周りには無理と思える祈りを、粘り強く続けている祈りがあります。周囲は共に祈ることが大切です。それは、きれいな祈りではなくてよいのです。疑い半分でもよいのです。私たちの平和の願い、言葉にならない叫びを神様にささげてゆきたいのです。

今日は聖書から祈りをあきらめないこと、神様はあきらめず祈ろうと私たちを励ましているということを見たいと思います。今日の聖書から平和への祈り、他者への祈りをあきらめず、励ますイエス様の姿を見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

 

 

今日の個所の少し前の個所で、イエス様は山の上におられました。そこで光り輝く姿、栄光の姿に変えられたのです。しかしイエス様はその山の上から下って来られました。イエス様は聖なる場所から、下って来られるお方です。イエス様は高い聖なる場所から人々が議論し、争う場所にやってこられたのです。

群衆は驚いたとあります。群衆にとって山から下ってこられたこと自体が驚きだったのです。山の上にいるはずの方が、この地上に来たこと、争いの現場に来たこと自体が驚きだったのです。それは私たちが争いあう現実の世界にイエス様が来て下さるということも示しているでしょう。

山の下でイエス様は悪霊と出会いました。悪霊の力とは、その人をしゃべれなくしました。悪霊は自分の思いを口にさせない力を持っていました。そして悪霊の力はその身体を傷つけ、引き倒します。体を硬直させ動かないようにさせます。人を死んだようにさせる力でした。弟子たちはこの悪の力を追い出すことができませんでした。このこどもをその悪霊の力から自由にすることができなかったのです。弟子たちの力ではできなかったのです。

イエス様は20節で弟子たちに「私のもとに連れてきなさい」と言います。そうです、弟子たちの役割はイエス様になることではありません。弟子たちの役割はイエス様のもとに連れてゆくことです。私たち弟子の役割は、伴って、手を取って、友人を、こどもをイエス様へと連れてくることです。

イエス様は21節「いつからか」と尋ねます。父親は「幼いころから」だと答えます。いろいろな病院を回ってもこどもの病名がわからない親を想像しました。次こそ原因がわかる、そう希望をもって次の病院を訪ねるでしょう。しかし原因は分からず、そのたびにがっかりして帰るのです。この父親もそうだったでしょう。いろいろな場所で、いろいろな人に見てもらいました、祈ってもらいまいた。しかしすべて駄目でした。今回もほらまた弟子たちに祈ってもらったけれど治りません。父親はもう期待することに疲れていたでしょう。あきらめかけていました。気力の無い言葉が続きます。22節の趣旨は「もしあなたにまだ何かできることがあれば、してください」そう、あきらめながら尋ねたニュアンスを持ちます。

イエス様も父親があきらめかけていることを感じたでしょう。悪霊はとはそのような力を持っています。悪霊とはあきらめさせる力です。祈りによって病気が治るのかどうかはわかりません。しかし、ここで病気以上に悪霊の力とされているのは、あきらめてしまう力です。人をあきらめさせようとする力です。もうダメだ、そうあきらめさせるのが悪霊の大きな力なのです。父親は悪霊に負けそうになっていました。あきらめさせる力に負けそうになっていた、あきらめかけていたのです。

イエス様は23節「信じる者は、なんでもできる」と言います。本当になんでもできるかどうか自信はありません。でも信仰、つまり神様への信頼があれば、祈り続けることができるでしょう。あきらめず祈り続けてゆくことできるでしょう。あきらめず祈り続けることが信仰なのです。私たちはすべてが可能となるときまで、あきらめずに祈ることができるのです。

父親はこれにすぐに答えます「信じます!」「神様を信頼し、あきらめません」と答えたのです。信じることができず、あきらめそうになってしまう私を救ってくださいと言ったのです。父親が「私を」救ってくださいと言ったことも大事なことです。彼は息子を救って欲しいと願うと同時に、「私」の救いも祈ったのです。この「私」に息子のことを祈ることを、あきらめないようにさせてください、そう願ったのです。

父親の言葉は24節「叫び」でした。その願い、その祈りは叫びだったのです。私たちもそのように祈っていいのです。祈りは叫びです。叫びが祈りです。美しい言葉にならなくてよいのです。祈りは叫びなのです 。

そしてこれは息子自身の祈りではなかったことも見ておきましょう。イエス様が見ているのは、周囲の人々の祈りなのです。周囲の大人の祈りです。周囲の大人のあきらめない叫びが、神様に届いたのです。

そして25節、イエス様は悪霊をしかりつけて追い出します。その子の持つ願いを黙らせ、引き倒した力、周囲をあきらめさせ、絶望させた力、その力をイエス様は追い出したのです。そしてそれは祈りによって起こるのだと言います。あきらめさせるのが、悪の力です。祈り続けることがそれに勝つことなのです。祈ることがあきらめを追い出すのです。イエス様はこの物語からこの希望を教えてくれています。私たちがあきらめそうになる時、そのことをもう一度祈れ、あきらめるな、祈りよってこそ、このあきらめは追い出すことができると言っています。

私たちは何かをあきらめそうになっているでしょうか。私たちはあきらめずに祈り続けたいのです。特に平和について祈り続けましょう。私たちには何度も戦争が起きて、何度も平和をあきらめそうになってしまいます。戦争を見て、いつも祈っているのに、また戦争が起きてしまったとがっかりします。でも私たちはあきらめずに祈りたいのです。祈ることであきらめない力をいただきたいのです。悪霊の力はいつも、私たちをあきらめようとさせます。そんな願いはかなわないと誘惑し、平和をあきらめるようにささやき、私たちを黙らせ、引き倒すのです。私たちはその悪霊を追い出すように祈りたいのです。父親の祈りが叫びだったように、私たちも祈り叫びましょう。声をあげましょう。平和が欲しいと神様に叫びましょう。

そして実はイエス様も叫んだお方です。十字架の上で「わが神わが神なぜ見捨てるのか」と叫んだのは、イエス様でした。イエス様こそ暴力のただなかで平和を求めて叫び、神に祈ったのです。その祈りを私たちも祈りましょう。暴力が満ち溢れる世界の中で、あきらめずに平和を主に叫び願ってゆきましょう。今日の聖書によれば、本人以上に、周囲の人の祈りが大事です。大人たちの祈りが大事です。私たちは互いのこと、こどものことを主に叫び祈ってゆきましょう。平和のために叫び祈ってゆきましょう。

このあと主の晩餐を持ちます。この杯は十字架の主が流した血を象徴します。イエス様が血を流し、叫び、平和を祈られたことを覚えてこの杯をいただきましょう。そして私たちも叫び、平和を祈りましょう。お祈りいたします。