「ゆるせなくていいよ」マタイ6章9~13節

我らが罪をゆるすがごとく、我らの罪をもゆるしたまえ マタイ6章12節

 

主の祈りについて考えています。今日見てゆきたいのは「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」についてです。この祈りには「私はあの人のことを赦します」という宣言が含まれています。だからこの個所は主の祈りの中で一番自信を持って祈ることができない箇所です。「我らが罪を○%×$☆♭#▲!※、我らの罪を赦したまえ」とごまかしたい祈りです。なかなか宣教もしづらい箇所です。

この祈りをもっと知るために、罪とは何か、赦すとは何かという2つの側面から考えたいと思います。罪とは大きくは命を傷つけることです。法律で禁止されているかどうかに関わらず、人の命を傷つけたり、見下したり、物のように扱う事が罪です。一番大きな罪、わかりやすい罪は戦争です。私たちは直接的かどうかに関わらず、いつも誰かの命を傷つけてしまう存在です。私たちは罪人です。私は罪人ではないという人は、自分の罪に気づいていない罪人でしょう。

では赦しとはどんなことでしょうか?赦すとはもうこれ以上その問題について相手を責めないことです。以前の関係に戻ることです。関係の回復が赦しです。一番わかりやすい赦しは借金・負債の免除です。ただここで注意が必要なのは「赦す」とはきれいに水に流し、忘れてしまうことではないということです。赦しとは、忘れはしないけど、でも関係を回復するということが赦しです。

キリスト教では「赦しなさい」と教え、赦しを強制してきた部分があります。しかしその教えは、多くの二次被害を生んできました。赦すか赦さないかは本人の自由です。赦しには時間がかかるものです。簡単に赦す必要はありません。加害者の誠実な謝罪や償いは赦しへの一歩となるときがあります。でも本人が赦せないと思うなら、赦さなくていいのです。人が人を赦すことは難しく時間がかかります。

では神様はどうでしょうか?神様は罪を犯した横から自動的に、機械的に赦してゆく方なのでしょうか。違います。神様はきっと私たちが自分の罪を罪と認め、もうしないと固く思うことを期待しています。そしてもう二度としないと誓う時に、初めて神様は私たちの罪を赦してくださるのです。それが神様の赦しです。神様は私たちが罪を罪と認め、もうしないと誓う時、赦し、関係を回復してくださいます。

今日の祈り「我らが罪を赦すがごとく、我らの罪をも赦したまえ」は赦しますと思っていない人、赦さない人はこの祈りは祈れません。おそらく誰も祈れないはずです。しかし「私は赦す」と祈ります。そこには私たちの矛盾と破れがあります。祈れない祈りです。でも私たちはその矛盾に希望を置くのかもしれません。赦せないのに赦しますと祈る、赦されないことが赦される、その矛盾と破れの中に私たちの希望があるのではないでしょうか。赦せないのに、赦しますと祈る、そのはざまに神様はいて下さるのではないでしょうか。

これは本当に祈れない祈りです。今日は主の祈りは祈らずにおきましょうか。でもやはり祈りましょう。赦せなくてもいいから、赦すと一緒に祈りましょう。