それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。マタイ21章12節
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞き、命を感じながら一緒に礼拝をしましょう。
今月と来月は地域活動と福音について考えてゆきたいと思います。この宣教以外でも、それぞれに語り合っていることかもしれませんが、改めて地域活動と福音について分かち合いたいと思います。
先日焼肉の食べ放題に行ったのですが、3つの価格帯のコースがありました。3000円、4000円、5000円くらいのコースです。私たちは3000円の一番安いコースを頼みました。おいしかったのですが、気になったのは、隣のテーブルの人は高いコースを頼んでいて、なんだかこちらのテーブルよりおいしそうな壺に入ったお肉や大きなデザートがどんどん運ばれてきていました。あれを食べたいと思っても、3000円コースでは頼むことができなかったのです。おいしかったけど、ちょっと悲しい気持ちになって帰ってきました。外食の頻度や価格帯は、私たちの間にある格差をはっきりと表す場面かもしれません。
私たちの教会ではこども食堂をしていますが、振り返ってみて、この食堂はかなり平等な食堂なのではないかと思いました。だれでも1食200円です。でもその価値以上のおいしいものを食べることが出来ます。しかも全員同じメニューというのも重要です。全員が同じ値段で同じメニューを食べます。これは意外と少ない機会です。私はこの食堂の特徴は、とても平等な食事会なのだと言うことに気付きました。こひつじ食堂で100円追加すると料理がグレードアップできるというアイディアはどうでしょうか?収益は改善しそうです。適正な対価を払っているので、大人は受け入れるかもしれません。でもきっと感性の鋭いこどもたちから、ずるいとか、不平等だとか、反対の声が上がるでしょう。この食堂は平等であるべきだということ、みんなが何となく感じ、期待してくれているでしょう。今まで気付かなかったのですが、私たちの食堂は平等であることを大切にしているのです。
礼拝をすべき神聖な場所で、にぎやかな飲食をすることは、不信仰なことに見られるかもしれません。静寂と祈りの場所であるべき会堂が、食べこぼしや、油で汚れます。でも、私たちはこの食事が、福音宣教の一つ、私たちの信仰の一つだと思って大切にしています。
そしてこの食事は全員が神様の前に等しく、平等であることをよく表している食事です。きっとイエス様も、会堂で食事などけしからんと怒るのではなく、この平等な食事を見て喜び、楽しく加わってくださるのではないかと思います。なぜならイエス様も格差や差別に反対し、平等を愛したお方だからです。今日はイエス様が平等を行動で体現した姿を聖書から見てゆきましょう。
マタイによる福音書21章12~16節をお読みいただきました。当時のエルサレムの神殿はユダヤ教の信仰の中心でした。神殿にはたくさんの献金や献げ物が集まりました。しかしこの献げ物の行先には問題がありました。特権階級の祭司たちがその献金で贅沢な暮らしをしていたのです。貧しい人々からの心からの献げ物で貴族のような生活をしていたのです。
図にあるように、神殿の一番外側の「異邦人の庭」では、献げ物を販売するお店が並びました。牛や羊を献げることが良い事とされたが、貧しい人は鳩を献げました。また神殿では献金は古いお金を使うことと決められていたため、両替人も多くいました。これはどれも神殿公認の商売でした。場所代も払ったでしょう。人々は貧しくてもみな精一杯を献げました。しかしその献金は祭司たちの贅沢な生活を支えるために使われてゆきました。
イエス様はその神殿に乗り込みました。かなり激しい様子でイスをひっくり返し、そこで働いている人を神殿から追い出しました。イエス様が神殿から商売人や両替人を追い出した理由は、神殿で商売をすると神殿が汚れるからではありません。もともとこれは祭司にも公認された商売です。
ではイエス様が神殿から商売人と両替人を追い出した理由は何でしょうか?それは貧しい人からの献金で、祭司が贅沢な生活をしているという、経済的な搾取に反対をしたからでした。いわば神殿の集金システムを批判したのです。それはお金を集めて贅沢をしている祭司への反抗でした。イエス様はみんなの見ている前で、この神殿の集金体制をぶっ壊すぞというパフォーマンスをしたのです。俺は神殿が貧しい人を苦しめ、格差を生んでいるのが気に入らないのだ。そんな神殿はいらないとアピールをしたのです。もっと豊かに生きるため、格差と差別のない平等な社会の実現のために、イエス様は象徴的に、商人たちを追い出したのです。イエス様は豊かさと、平等を求めたのです。
この行動に祭司たちは激怒しました。神殿で汚れたことをするのはやめようという運動、純粋な信仰の運動だったら、祭司たちも納得したでしょう。私たちの間でもイエス様の行動は従来「宮清め」として、神殿から汚れを取り除く行動だと理解されてきました。しかしその解釈は無理があります。神殿を清めようとした人を殺す必要はありません。祭司たちがなぜイエス様を殺そうと思ったのか、それはイエスが切り込んでしまったのが、神殿の搾取体制だったからです。特権階級の既得権益に踏み込んでしまったからでした。祭司たちにとってどんな大義があったとしても、自分たちの利権への批判は容認できないことだったのです。イエス様もそこを批判する危険は承知だったでしょう。この行動にはそのような搾取と格差に反対し、平等を求めるという意味がありました。
神殿ではもうひとつ深刻な問題がありました。それは差別の問題です。神殿は図の通り、いくつもの壁で仕切られていました。その壁はまさに差別・階級の象徴でした。その壁は清さによって、外国人はここまで、女はここまで、男はここまで、祭司はここまでと区切られていました。神殿は誰でも中に入ることが出来る場所ではなく、むしろ差別を生み出していた場所だったのです。このように人間の間ではすぐに差別や階級が生まれます。清い人がいるなら、清くない人がいるのです。汚れた人、劣った人という差別は人間によって作られるのです。
商売が行われていたのは異邦人の庭です。そして、異邦人の庭にすら入ることが許されない人もいました。それは障がいを持った人です。目の見えない人、足の不自由な人、それは汚れていると差別され、一番外側の門さえ入ることが許されなかったのです。
しかし14節によればイエス様の行動の後、事件が起きます。門の中に決して入って来てはいけない、神殿を汚すと差別された人が神殿の中に入ってきたのです。元々の言葉を見ると、目の見えない人も、足の悪い人もどちらも複数形です。イエス様の行動の後、異邦人の庭に、汚れていると言われてきた障がいを持った人が、大勢、きっとなだれのように入って来たのです。差別され、神殿に出入りすることを禁じられた人々が、差別と階級を乗り越えて、イエス様のそばにやってきたのです。
さらにイエス様の行動で注目するのは、異邦人の庭でその人々を癒したという点です。正しい順序は、神殿の門の外で癒し、障がいがなくなり、汚れと言われるものがなくなってから、入るべきでした、しかしイエス様は、差別された人を先に門の中に招き入れてから、神殿の中で癒したのです。このようにイエス様は差別に反対する姿勢、徹底的な平等主義を行動によって示したのです。この一連の宮清めと呼ばれる場面は、聖所を汚れから清めたのではなく、格差と搾取と差別に反対をした、イエス様が徹底して平等を訴えた象徴的な行動だったのです。
そしてそれは神殿の特権階級を激怒させました。特権階級の祭司は、既得権益と階級構造を揺るがす奴に容赦しませんでした。このようにしてイエス様は十字架に掛けられてゆくことになります。イエス様の行動がこの個所で表しているのは、この世界は徹底的に平等になれというメッセージです。
さて、現代にも様々な格差や搾取、階級社会とも言える不平等があるでしょう。経済格差はますまる広がりです。正社員と非正規社員の待遇の違いはほとんど階級社会です。上級国民という言葉もあります。このような格差に社会は不満を高めています。障がい者の差別もまだまだ身近なものです。今もいろいろなところに格差や差別、階級社会があるでしょう。人々は徹底的な平等を救いとして求めています。
もしイエス様が今のこのような社会を見たらならどうするでしょうか。怒って、そこをめちゃくちゃにするでしょうか。そんな搾取おかしい。そんな差別おかしいと。階級を打ち破ったでしょうか。それはきっと危険なことです。
聖書を読む私たちは今をどのように生きてゆくことができるでしょうか。イエス様の求めた徹底的な平等を私たちも実現したいと思います。日本で世界で、この平等を実現したいと思います。時間はかかるでしょう。でも私たちの教会の中で、この礼拝でならすぐに実現、体現できるでしょう。この教会には清い人も、清くない人もいません。階級のような上も下もありません。私たちは等しく、互いを尊重し合う仲間でいましょう。
私たちはその平等をこの教会だけではなく、地域に広げてゆきましょう。こひつじ食堂や様々な活動を通じて、イエス様が求めた徹底的な平等が実現する世界を、この教会から広げてゆきましょう。お祈りします。
