「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
マタイによる福音書5章3節
4月・5月と初めて教会に来る方に向けて話をしています。2000年前、イエスに従ったのは、極限まで貧しい人、社会の底辺にいた人々でした。私たちの生活も確実に貧しくなってきています。ガソリン、電気、お米…。幸せはお金の有無だけではないというのは本当です。しかし貧困と幸福度には密接な関係があります。貧しさは人の幸福度を確実に、大きく下げます。幸せの大きな要素は経済的な豊かさです。
宗教は心の中だけではなく貧困という大きな不安をなくすために働いています。キリスト教が貧しさ・格差へ反対する根源的な理由は「みんなおんなじ命」だからです。命はすべて神様が創ったものであり、すべての命には尊厳があり、その価値に上下はありません。だからこそ、すべての命が大切なのです。だから命は貧しくてはいけないのです。神様から与えられた命は、ちゃんと食べることができる、ちゃんと幸せだと感じさせることができる命でなければいけないのです。
私たちは神様の力が貧しさの中に働くと信じます。神様の力は、貧しくても前向きに生きようという気休めではありません。今日はこの貧しさ、経済的不安を無くすために、神様が私たちに働くと言っている聖書の個所を見ます。
5章3節の「心が貧しい人」とは、他者に配慮や愛のない人のことではありません。心の貧しい人とは、経済的な事情で明日が不安という人のことです。こどもをしっかりと育ててゆくためのお金を稼ぐことができるか不安な人、老後のお金に不安を感じている人、お米が高くてこれ以上値段が上がったら買えないと不安に思う人のことです。イエス様はそういう人たち、私たちに語り掛けているのです。
「天の国はその人達のものである」とは、この世で苦労した分、死んだ後、天国に入って、安らかに過ごせますよという意味ではありません。神様の理想が実現する場所が、天の国です。貧しい人のいない世界の実現した場所が天の国です。天の国では、神様の力が貧しさの不安の中にある人に働き、そして貧しさそのものが無くなってゆくのです。
私たちが祈り、求めているのは、貧しさの中の心のゆとりではありません。もっと根本的な経済的な心配をしなくてよくなることです。それが日本で、世界、あらゆる地上で、みなさんの生活で実現することを祈っています。そのことを求めて、イエスに従っています。
イエスは「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」と教えました。その言葉を私の人生の中心に置きたいと思っています。神様から与えられた命に、貧しさはふさわしくありません。神様はそのような心の不安が、貧しさが必ず解消される世界が来ると言っています。私たちはそのような世界、天の国が来るように、祈りましょう。世界のすべての人が安心して生きていけるだけの収入があるように祈りましょう。お祈りします。