【全文】「不安になったら」マタイ福音書6章25~34節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声や物音を命の音として感じながら共に礼拝しましょう。

 

先月と今月は初めて教会に来ますという方に向けて話をしています。聖書は難しい話ではなく、私たちの生きるヒントや、生きる支えになるのだということを、専門用語を使わずにお話しをしたいと思っています。

 

沖縄の霊能者が4月26日に東京で大地震が起こるという予言をし、SNSなどで話題になり、不安が広がりました。もちろん地震は起きませんでしたが、多くの人がこの予言に不安を感じたそうです。気象庁はわざわざ、現在の科学では地震の予測は不可能だと発表しました。もし予測できるなら東日本大震災も能登の地震も予測をして欲しかったものです。なぜそんな予言を信じる人がいるのだろうかと疑問にも思いますが、大きなニュースになるということは不安になる人もたくさんいたということでしょう。きっと私たちの実生活にはたくさんの不安があるからこそ、このような事にも不安を感じるのでしょう。

 

私たちの生活には様々な心配事があるものです。ここに集まった幸せそうな方々にも、人には見せずともたくさんの心配事があるものです。「あの人にこんなひどいことを言われた」という不安「自分は周りからどう思われているだろうか」「この先、年金だけでやっていけるだろうか」「子どもや孫は、ちゃんと幸せに暮らしていけるだろうか」など様々な不安があります。

 

あるいは過去の嫌な記憶がふと蘇ってきて、心がざわざわする不安。眠ろうとすると、なぜか怖いことばかり考えてしまう不安。一人一人に様々な不安があるでしょう。

 

私たちはそれを心配し、思い出してみても現実が変わるわけではないことをよく知っています。思い出して、考えてみてもどうにもならない事だと分かっています。イライラしても、心配や人にされた嫌な事、人に何かをできなかった後悔を思い出してみても、どうにもならないことだとわかっています。でも、それでも不安は頭から、心からとりのぞかれることがないのです。その心配はぐるぐると心の中で、頭の中で巡ります。

 

私自身も、不安で夜眠れない時があります。布団の中で考えても、どうしようもないことをいつまでも考えてしまうことがあります。いつの間にか眠ってしまうことができればいい方でしょう。考えていたら、窓の外が明るくなっていたこともあります。

 

どうしたら私たちはこのように心を蝕むような、必要以上の不安から自由になれるのでしょうか。どうしたら、頭の中で同じことばかり考えてしまう、この堂々巡りから抜け出せるのでしょうか。

 

インターネットに聞けばいろいろな解決方法が書いてあります。運動が良いとか、不安を声に出すとか、あるいは真っ白な紙をイメージしましょうと書いてあったりします。それらは多少の効果がありそうです。でも、もっと根本的に、私たちは、この次から次へと湧いてくる不安や心配、後悔とどのように扱ってゆけば良いのでしょうか。

 

私たちの日常には様々な不安があります。キリスト教・聖書・イエスは人間の尽きることのない不安について何を語っているでしょうか。今日は聖書、イエス・キリストの教えは私たちを不安の鎖から解放し、生きる支えになってくれるということについてみてゆきたいと思います。

マタイによる福音書6章25~34節をお読みいただきました。聖書が書かれた2000年前の人々にも私たち同じように切実な不安がありました。私たちの心配といえば人間関係や、経済的なことや健康のことが多いでしょうか。

 

しかし当時の人々の大きな悩みは明日の食事のことでした。多くの人々は、蓄えたわずかな食料が減っていくのを見ながら毎日「これがなくなったら、自分や家族はどうなるのだろう」と不安に思っていました。文字通り、明日の命に関わる不安の中で生きていたのです。不安に押しつぶされそうな毎日だったのです。

 

イエスはその心配に親身に寄り添う方でした。傷ついている人、寂しい人、不安な人に自ら会いに行って、手を握って励ましたお方でした。

 

私たちは先週も「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉を見ました。イエスが経済的な事情で将来が不安な人に寄り添う姿を見ました。そして不安のない世界が来るように祈ろう、働こうと励ましておられるのを見ました。神様から与えられた命に、貧しさはふさわしくないということを見ました。

 

今日はイエスが他にも様々な不安を持つ人々にどのように語ったのかをご紹介します。イエスは25節で「思い悩むな」と言って、26節からこんなことを教えました。

 

26節でイエスはこう言います「空の鳥を見なさい」。それは思い悩む時は家にこもって心配をしていないで、扉を開けて、家の外に出て、吹き抜ける風に吹かれて、外の空気を目一杯吸ってごらんということです。そして空を見上げて、どこまでも広がる広い空を感じてごらん。きっとそこには鳥がいるよ、鳥を見つけてごらん。自由に飛び回っている鳥たちを見つけてごらん。あの鳥はどこから来て、どこに行くのか、どこまで行けるのか想像してみてごらん。あの鳥たちにも悩みがあるかもしれないね。でもきっとあなたほどいろいろなことに心配していないだろうね。あなたほど思い悩んではいないだろうね。

 

でも神様はこの鳥の命も大事に思って守ってくださっているよ。神様はあなたたちの命を神様にかたどって、そっくりに創られたのだよ。鳥も大切だけど、神様はあの鳥たちよりももっと、あなたのことを大切に思っているよ。神様は君たちに、あの鳥たちよりもっと自由に、もっとのびのびと、安心して、どこまでも先へ進みあなたの可能性を広げて欲しいと願っているよ。

 

27節でイエスは思い悩むことについて、さらにこう続けます。あなたが思い悩んでも、問題が変わるわけではないね。思い悩んでも不安が大きくなるばかりだね。思い悩んでも寿命が延びるわけではないし、むしろ不安は寿命を縮めるよね。だから必要以上に不安になるのはやめよう。イエスはそうやって私たちから不安を取り除いてくださろうとしています。

 

イエスは私たちの不安をよく知っているお方です。その不安を小さなことだと言いません。それを受け止め、励ましてくれます。心配しなくていい、神様があなたを大事に思っているよ、自由になりさないと励ましてくれています。

 

もうひとつ教えています。28節です。イエスは「野の花を見よ」と言っています。不安に思っている時は、足元をよく見て、道端に咲いている花を探してごらん。注意深く探すと、自分の足元にあるのに、見過ごしていたきれいな花があるよということです。この花が何も着飾らないで、ありのままで美しい事を見つけてごらん。野の草の上に座って、よく見てごらん。

 

そして、イエス様は言います。あんなに栄華を極めたソロモンという王様でさえ、この野の花の一つほどにも着飾ってはいなかったよ。人間がどんなに着飾っても、どんなに成功して豊かになったとしても、神様が咲かせたこの小さな野の花の、ありのままの美しさには敵わないんだよ。心配事でがんじがらめになっている私たちの心と比べてごらん。このありのままの野の花の方が、どんなに素晴らしいか。

 

野の花は明日どうなるかさえまったくわからないのに、心配せず、こんなに美しい。それは神様が美しくしてくれているのだよ。

 

そして神様はこの花よりも、もっとあなたのことを大事に思っているよ。君たちにこの花よりももっと光り輝いて欲しいと思っているよ。

 

そしてイエス様は31節で、もう一度、力強く言います。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」。色々な心配事があるけど必要以上に心配しすぎるのは、もうやめよう。なぜなら神様はあなたの必要も心配もすべて知っていてくださるから。あなたは一人じゃないから。神様がついているから、大丈夫だよ。さあ、空の鳥のように自由に、野の花のように、あなたらしく輝いて生きよう。神様からいただいた、この一度きりの大切な命と時間を、不安に過ごすのは、もったいないよ。神様から頂いたその限られた時間を不安に過ごすのではなく、自由に、あなたらしく光り輝けるように生きよう。イエスはそのように私たちを励ましてくれています。

 

33節をみましょう。「神の国と神の義を求めなさい」とあります。

 

神の国と神の義を求めるというのは、まさに、私たちが鳥のように自由に、花のように自分らしく輝いて生きられる、そんな世界を、神様に求めていくことです。神様はその実現を求めて祈ろうと言っているのです。

 

そしてイエスは付け加えています。今日の苦労は今日だけで十分だよ。もうそれ以上心配しなくていいよ。これが心配事の多い私たちへの、イエスからの励ましです。

 

私たちの人生には、思い悩むことが尽きず、不安がたくさんあるものです。でも私たちはそのような時、空の鳥と、野の花に目を向けましょう。私たちは癒されるはずです。そしてその自然を通して語りかけてくださっているのは神様です。神様はそのようにして私たちを愛し、大切に思ってくださっているのです。

 

私たちは神様の願いが実現し、互いが不安から解放されることを祈りましょう。この礼拝の後、みなさんの心が少しでも軽くなるように祈ります。神様が、あなたを不安から解き放ち、自由で、あなたらしく輝く人生を与えてくださることを信じています。お祈りします。