あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
マタイによる福音書7章3節
文章の発行には校正という作業があります。誰かの目線で自分の文章をみてもらうことは、非常に大事です。多くの場合、みなさんは愛と配慮に満ちた言葉で修正を提案してくださいますが、それでも指摘に落ち込むこともあるものです。しかしその指摘は私の成長、私の気づきにつながってゆくと感じています。私が一番怖いのは、あの人には何を伝えても「豚に真珠」だと言われることです。私は他者の言葉を受け止め、変わり続ける自分でありたいと思っています。聖書にもそのように他者の視点や言葉から学び、成長していく大切さ、他者と誤りや間違えを共有し共に変化し、生きてゆくという生き方が示されています。聖書を読みましょう。
ある人の目は、丸太が刺さっているという衝撃的な状況でした。しかしこの人は自分の目に丸太が刺さっていることに気付いてすらいません。なぜ誰も指摘しなかったのでしょうか?人様のことにあまり口出しをしないでおこうと思ったのでしょうか。あるいは何度伝えても「そんなはずない」と言って受け入れなかったのかもしれません。あるいは抜きたくても抜けない事情があったのかもしれません。
イエス様のこのたとえ話は、他人事ではありません。この丸太が刺さっている人とは、間違えに気づいていない自分であり、間違えを指摘されてもなお直そうとしない私であり、間違えを直したくても直せない自分です。私にも、そしてみなさんにもきっと、丸太が刺さっているのではないでしょうか。
私たちは互いに丸太が刺さっていることを優しく教えあって、お互いに自分の丸太を抜くのを手伝い合いたいのです。私たちは互いにそのような関係でありたいのです。一番の不幸はお互いに対して何もしないことです。それは互いの目を曇らせ続けることになります。お互いに欠けを持っていることを確かめ合い、互いの丸太に気付き、取り合うことが愛し合うということです。私たちがお互いに交わす言葉は、時として、互いを成長させる輝く真珠となるはずです。真珠のような他者の言葉の価値を、私たちは決して踏みにじってはいけません。
神様は天国から人間同士の愚かな掛け合いを見て笑っているのではありません。神様は人間に、間違えを捨てて、正しく生きて欲しいと願っています。そしてその間違えを神の言葉から、互いの関係の中から解消していって欲しいと願っています。神様は、人間が神様の言葉を聞き、愛し合い、共に磨き合い、正しく生きて欲しいと願っているのです。そして神様は決して私たちを見放しません。「人間には何を言っても無駄だ、まさに豚に真珠だ」とは言わないお方です。
それどころか神様は、私たちに愛をもって、何度でも語りかけてくださいます。私たちにとって価値のある、美しい言葉・真珠を与え続けてくださるのです。私たちはその神の愛の深さを感じましょう。そしてその愛を受けて、私たちも互いに愛し合い、互いの言葉を真珠としあいながら生きてゆきましょう。お祈りします。