「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 ヨハネによる福音書6章9節
私たちの教会では毎月第一日曜日に、主の晩餐という儀式を行っています。この儀式は食パンを小さく切り分けて食べ、ぶどうジュースを一口ずつ飲むという儀式で、イエス・キリストを思い出すことを目的に行われています。この主の晩餐はコミュニオンとも呼びます。
これまで平塚教会では洗礼を受けた人しか食べてはいけないとされていたものを、どなたでも共にこのパンとぶどうジュースをいただけるように変更しました。誰でも参加できるものにすることをオープンコミュニオンと呼びます。ぜひみなさん、この後に配られるパンとぶどうジュースを受け取ってください。
聖書にはイエスが語り、人々が信じる、その多くは、食事の場での出来事でした。私たちはイエスが食事の最中・前後にたくさんの愛を教えたということを記憶しておくために小さなパンとぶどうジュースを飲んでいます。
イエスの食事は、特別な人だけのものではなく、誰でも招かれた、開かれた食事でした。そのような食事だからこそ、温かい交流が生まれ、相互理解と愛が生まれたのです。イエスは分け隔てのない食事によって、互いに愛し合うということを、身をもって教えたのです。今日は聖書に記載される、オープンコミュニオンを見つめ、私たちの主の晩餐の意味を探したいと思います。一緒に聖書を読みましょう。
ある時、5000人以上が食事の必要な時がありました。しかし食べ物もなく、買うお金も足りませんでした。そこにひとりのこどもが登場します。彼は持っていた5つのパンと、2匹の魚を差し出したのです。それは小さな愛でした。自分は小さいけれど、きっと何かできると信じ、イエスの教えた愛を実践したのです。弟子たちはそれを「何の役にも立たない」と考えました。しかしこの小さな愛に対して、イエスの態度は違いました。
イエスはそれを受け取りました。そして11節、パンを取り、感謝の祈りを唱え、分け与えられました。これは主の晩餐が行われたということです。そして小さな愛をきっかけに奇跡が起こります。その小さな愛は全員が満腹して余りあるほどの大きな奇跡につながっていったのです。私たちはこの奇跡の食事が温かい交流の食事だったことも想像します。ただパンを食べたのではありません。お互いに顔と顔を合わせて食事をしたのです。そしてこの食事はイエスがすべての人を排除しなかったということも大事なことでしょう。
この個所から、大きな問題にあっても、私たちはあきらめずに小さな愛を実践しようと教わります。小さなこどもがパンと魚をもってイエスの前に進んでいったように、私たちも小さな愛を実践しましょう。今日、私たちはそのことを忘れないために、パンを食べましょう。神様は私たちの小さな愛を用いて大きなことをなしてくださるお方です。お祈りします。