「地域を応援する教会」マタイ11章28~30節

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタイよる福音書11章28~30節

 

今日は創立記念感謝礼拝です。75年目の今、私たちの教会でもっとも広がりのある活動はこども食堂です。こども食堂には子育てに必死な親が来ます。こどもの食事をどうするかは親にとって大きな重荷であり責任です。教会は子育てそのものを変わってあげることはできないけれど、1食だけでも応援し、重荷を分かち合えたらと思います。こども食堂は、誰かに応援されて、ほっとできる場所です。毎日の食事作りを休むことができる場所、安心できる場所です。

もし教会を出る時に、お腹いっぱいになって「すこし元気をもらえた」「私は応援されている」「また明日から頑張ろう」と思ってもらえたのなら、私たちの愛、神様の愛は確かに地域の人に伝わったのではないでしょうか。今日も聖書からイエスが重荷を負う人にどのように言葉をかけたのかを見てゆきます。

イエスは28節で、私との関係の中においで、そうすれば安心して休むことができる、そして元気がもらえると言っています。そして29節では「私の軛(くびき)を負いなさい」と言っています。軛とは畑を耕したり、荷物の運んだりするために、牛や馬の首につける木のことです。動物にとっては重荷であり、つらい仕事です。だから軛は、不自由さの象徴や、重い責任を担うことの象徴になりました。軛とは言わないまでも、私たちの生活にも不自由さや、重い責任があるものです。

軛にはよい軛と悪い軛があります。よい軛とは体の力の入りどころとしっかりとかみ合っている軛です。悪い軛ははめると痛みがあり、力が入らないのです。私たちの背負っているものは、「自分ひとりで何とかしなきゃ」と思わせる、悪い軛なのかもしれません。それはやる気がでない軛で、孤独に感じる軛、重荷に立ち向かうことができない軛です。イエスが私たちに勧めているのは、軛を変える事です。私たちは重荷をなお引き続けなければならないのですが、良い軛に変えると、重荷を引くことが簡単になるのです。

良い軛とは愛に囲まれて生きるということです。それは愛の軛です。愛の軛とはみんなが私を応援してくれている、祈ってくれている、神様が共にいる、そのように感じることができる軛です。愛に包まれた重荷は、軽く感じられます。それが30節に書いてある「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」ということです。

今日イエスは、自分の重荷が思いと思っている人は私のもとに来てごらん。愛に囲まれて生きると、休みと元気が与えられるよ。そうすると力が湧いて、ぐっと楽に生きることができるようになるよと言っています。

私たちの教会は地域の人々それぞれに重荷があることを知り、教会が一人一人を愛で包み込むことで、すこしその重荷が引きやすく、軽く、感じるような場所になりたいと願っています。そのように地域の人を応援し、地域の人を愛で包む教会になってゆきたいと願っています。お祈りいたします。