イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
マタイによる福音書20章34節
今日は6月23日の「命どぅ宝の日」を覚えつつ、心からの共感ということをテーマにお話をします。また松本さんの証しを聞きました。私は神学校でギリシャ語を教えています。ギリシャ語を学ぶことは、イエスの言葉や行動の意味をより深く感じることにつながります。それは翻訳では届かない響きに出会うための学びです。
学ぶということが、いのちを守ることにつながるということもあります。沖縄戦では多くの人が洞窟・ガマに逃げました。あるガマでは集団自決が迫られる中、アメリカに留学し、その国の言葉と文化を学んだ人が人々を説得し、命を救いました。言葉と文化を学ぶこと、それは相互理解、平和、共存共栄に欠かせない事なのです。今日はギリシャ語にも注意しながら、聖書の物語を読み、他者の心の叫びに耳を傾けることの大切さを一緒に感じてゆきましょう。
ある時、目の見えない二人がいました。彼らは「治して欲しい」ということよりも、まず「わたしたちの人生の痛みを、わかってほしい」と訴えました。しかし31節によると、群衆はその声を黙らせようとしました。叫びを聞いて、共に涙を流すのではなく「うるさい」「黙れ」と声をかき消したのです。この群衆とは、弱い立場の人の声に耳を傾けない社会の象徴です。
イエスはそこで足を止め「何がして欲しいのか」をもう一度聞き取ろうとします。「目が見える様になりたい」それは今までの彼らの人生の苦労が凝縮された言葉でした。イエスは彼らに近づき「深く憐れんだ」とあります。
深く憐れんだという言葉はギリシャ語で「スプラグニゾマイ」という言葉です。ギリシャ語のスプラグニゾマイは内臓・母胎に関係する言葉です。スプラグニゾマイとはつまり、自分の体の中の出来事、自分のお腹の中にいる赤ちゃんに起きたの出来事のように、自分事として深く共感するという意味です。
これに相当する日本語は沖縄の言葉の「チムグリサ」でしょう。沖縄の言葉には「私は悲しい」という意味の言葉がありません。その代わりのあるチムグリサという言葉は「あなたが悲しいと、わたしも悲しい」という意味です。沖縄の言葉のチムグリサという言葉はまさにギリシャ語のスプラグニゾマイと共通しています。
イエスはここで目の見えない二人にチムグリサしたのです。そしてイエスはその目に手をかざしました。その人の目は見えるようになり、イエスに従いました。
今日の個所からどんな生き方を見つけてゆけば良いでしょうか?自分が悲しみを叫ぶ人の声を聞くことができているかを問われます。私たちはその声を聞き、スプラグニゾマイし、チムグリサし、共に生きることができているでしょうか?あるいは私たちは沖縄の声を聞き、そこにスプラグニゾマイできているでしょうか。
神様はこの二人のように私たちの声を聞き、深く共感し、導き、癒してくださる恵み深いお方です。私たちもこのイエスに従ってゆきましょう。お祈りします。