主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」創世記2章18節
私たちは一人でいる方が気楽だと感じることが多くあります。自分の時間とペースを大切にすることも今の時代には必要なことです。しかし一方で一人の時間が増えることによる「孤立」も問題になってきています。私も平日ずっと、大きな教会に独りでいると孤独を感じるときがあります。孤立や寂しさの問題は私たちの周りの様々な場面で起きています。
神様は創世記1章から様々なものを順番に創造され、それぞれを「見て、よしとされ」ました。しかし今日の個所ではひとつだけ「人が独りでいるのは『よくない』」と言います。動物を創造しても彼に合う助け手ではなく、彼は寂しい孤独だと感じました。神様は新しい一歩を踏み出し二人目の人間を創造します。
歴史的にこの個所は男性優位、性別二元論、結婚の推奨の根拠として誤って解釈されてきました。聖書はここで男女やあらゆる性を超えて、人と人とがどのように絆を持ち、向き合うべきかを教えているのです。
神様がいて一人の人間がいる、それだけ世界は十分よいはずでした。そこには一人の世界の自由さと、気楽さがありました。しかしそこにいた人間も神様もそう感じなかったのです。神様は孤独であることを「よくない」と言いました。孤独は神様の創造の意図に適っていなかったのです。神様はきっと人間が二人いれば、すぐに衝突することを容易に想像できたでしょう。それでも神様は人間同士の豊かな交わりを期待し、二人目を創造したのです。
19節の「彼に合う助け手」の「助け」という言葉は、詩編において神様の助けという意味で繰り返し使われている言葉です。それは助手のような助けではなく、神様の「救い」という意味があります。神様は、独りで孤独な人間に対し「救い」として、もう一人の人間を遣わしてくださったのです。人間の究極的な助けは神様が握っています。しかし神様はこの地上での助け、共に助け合う者として、もう一人の人間を私たちに与えたのです。それが神様の創造の働きのクライマックスでした。神様はこのように、私たちに仲間を創造するお方なのです。
この物語は、性や結婚の有無に関わらず、私たちには、神様から共にいる仲間が与えられていると示しています。今、助け合って生きようとする誰かの顔が思い浮かぶでしょうか?血縁や地縁、国籍や宗教を超えて、私たちは互いに助け合う者として創造されています。クリスチャンとしてこの物語を読む時、共に信仰を分かち合う仲間が必要だとも理解できるでしょう。私たちの教会は互いに助け合いながら、励まし合いながら歩んでゆきましょう。
25節には二人は裸であることを恥ずかしいと思わなかったと記されています。それは心を裸にして互いに助け合う関係ができていたということです。私達もこのような信頼を築くことができるお互いになってゆきましょう。
私たちはそれぞれの場所にいる仲間、助け手の助けを受けながら生きてゆきましょう。そして私たちはそれぞれの場所にいる仲間のよい助け手・隣人となってゆきましょう。寂しさを感じる時、神様は私たちに仲間を与えてくださるお方です。お祈りいたします。