「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」創世記3章6節
誰しもが、人のものを勝手に食べてしまった、あるいは食べられてしまったという経験があるものです。冷蔵庫からなくなった、あのプリンです。私は初めてこどもが勝手にお菓子を食べた時、怒りたい気持ちと、ほめたい気持ちがあり、言葉になりませんでした。人のものを食べることは良くないことですが、自分で考えて決断し、行動するという発達はとても大切なことだからです。
みなさんも想像してみてください。神様が食べてはいけないと言ったものを食べてしまったことについて、神様はどのようにとらえたのでしょうか? 今日は原罪という伝統的な解釈から離れ、自分自身の目で、この物語を読みなおしてみませんか?
創世記3章を読みました。この個所から神様が人間に何を期待していたのかを想像します。神様は、私たちがずっと「いい子」でいることを、本当に願っていたのでしょうか?想像力を働かせましょう。もしかして神様は人間がこれを食べてしまうことが分かってたのではないでしょうか。
親はこどもが自分の期待に反するとしても、自分で選択することを促してゆくものです。「ずっとこの家にいてもいい。でもいつかは、厳しくても自分の足で広い世界を歩いてほしい」そんな思いで子どもを育て、広い世界へと送り出します。父なる神様もアダムとエバにそれを期待していたのではないでしょうか?そして女性であるエバは、世界で初めて「自分で決断した人」でした。神様は自分で決めるという主体的権利を使った人間を見て、エデンの園の外へと派遣していったのです。
私たちは、神様の言われた通りに生きることはできません。すべての行動に神様の指示があるわけではないからです。だから私たちはそれぞれの場所、場面で自分でよく考え決断し、行動しなければなりません。誰か、偉い人、詳しい人、AIが自分の選択を決めてくれれば楽です。でも神様の期待はそうではありません。神様は自由な存在として人間を創造されました。神様は人間を、自分のことを自分で決める主体的権利をもった存在として創造したのです。
もちろん人間が自分で判断すれば当然、間違えが起こります。その時大事なことは、自分の選んだ道を、誰のせいにもせず、しっかり受けとめることです。そのこともこの物語の中で伝えられている事ではないでしょうか?
みなさんは人間とは神様の前にどのような存在だと思うでしょうか?私たちにはなぜ自由があり、私たちにはどのような主体性があるのでしょうか?どんな人間も産まれながらに悪い存在なのでしょうか?私たちは誰に何に教わり、従って生きるのでしょうか?私たちの行き先は誰が決めるのでしょうか。
私たちは厳しい現実、失楽園の中に生きています。でも希望を失いません。神様が期待し、守り、ここへ派遣してくださっているからです。お祈りします。