「平和と憐みの食卓」マタイによる福音書9章9~13節

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 マタイによる福音書9章10節

 

今月は平和について考えます。まもなく原爆が投下されて80年を迎えます。

“こうの史代”の「夕凪の街 桜の国」という漫画を読みました。原爆投下10年後の広島の人々の生活や心情が豊かに描かれています。人々の心の奥には原爆の体験が深い爪痕を残していました。あの日の体験は、自分は誰かに「死ねばいい」と思われた、人間としての存在を否定された体験だったのです。

主人公は結婚を直前にしたある日、突然倒れ、全身に痛みを抱えて、息を引き取ってゆきます。死ぬ前の彼女の最後の心情が言葉にされています。それは「10年たったけど原爆を落とした人は『やったまた一人殺せた』と思ってくれているか?」というものでした。それは自分は人間として扱われなかったという叫びでした。

戦争とはそのようにして相手を非人間化し、人間の存在価値を根幹から否定する行為です。神様が人間の命を創造しました。私たちは人間の命を、神様の創った命として大切に扱わなければいけません。私たちは人間を人間として扱わなければいけないのです。平和とは、人間が互いの命を尊び、尊厳を認め合うことではないでしょうか。私たちはどのように平和への道を見出せるのでしょうか。今日は聖書の中に、その一つの光を見たいと思います。

2000年前、王と徴税人は人々を道具や家畜と同じ様に扱い、税金を搾り取っていました。だから人々は、自分を人間扱いしない徴税人とは絶対に食事をしませんでした。しかしイエスは徴税人や罪人と食事をします。古代において罪人とは様々な差別を受けていた人たちのことです。人間扱いされなかった人間たちです。

イエスは徴税人や罪人たちをみんな集めて、家で食事を共にしたのです。人間を非人間化する人、人間であるのに非人間化された人を一堂に集めて、食事会を開いたのです。イエスは、この共に食卓を囲むという行為を通して、人々が互いを『物』や『動物』のように扱うのではなく、かけがえのない同じ人間として再び出会い直すことを願いました。互いの中に神様から与えられた尊厳を見出し、そこに温かな『憐れみ』が生まれるようにと、彼らを食事へと招いたのです。この食事はイエスの開かれた「平和と慈しみの食卓」だったのです。私たちも人間を非人間化するあらゆる行為、暴力やハラスメント、差別に反対をしましょう。

私たちはこの後、主の晩餐という儀式を持ちます。この儀式の意味の一つは、イエスがこのような徴税人や罪人とした食事を再現するという意味があります。私たちもまた、イエス様によってこの「平和と慈しみの食卓」へと招かれています。私たちは改めて、ここにいる一人ひとりが、そして世界のすべての人々が、神様に愛されたかけがえのない人間であること、互いに尊重し合い、決して傷つけ合ってはならない存在であることを、心に刻みましょう。世界の平和を祈りつつ、このパンをいただき、この杯を飲みましょう。お祈りします。