「手段としての教会」マタイ13章32~33節

天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。

           マタイによる福音書12章32~33節

 

9月は「礼拝」について、みんなで考えてゆきたいと思います。この20年、私たちのコミュニケーションは大きく変わりました。携帯電話を持った時から、公衆電話をほとんど使わなくなりました。私は「公衆電話を守らなければ」とは思いません。なぜなら、大事なのは公衆電話ではなく、その中で育まれた、心と心のコミュニケーションそのものだからです。

教会や礼拝出席の数も公衆電話と同じ様に、減少しつつあります。教会を維持してゆくことは大事なことです。しかし教会はあくまで目的ではなく手段です。公衆電話も、維持が目的ではなく、他者とのコミュニケーションが目的でした。教会も同じではないでしょうか?公衆電話が姿を変えて、携帯電話になったように、教会もまたその目的を果たすために、どんどん変わってゆくべき場所なのです。

私たちの教会は20年後も、このままの形で存在しているでしょうか?それとも、人々の心のよりどころとして、新しい形に変わっているでしょうか?様々な試みに挑戦することが大事だと思います。ぜひみなさんも、こんな風にしたら、神様や人々とより深いつながりを持てるという礼拝のアイディアを教えてください。

聖書を読みます。古代の種まきはとにかく数を蒔くという方法でした。蒔いたものが全て芽を出すわけではありませんでした。しかし人々はケチらずに、収穫を信頼してたくさんの種をつかんで、惜しみなく蒔きました。新しい種を、惜しみなく蒔く人に、成長と収穫があったのです。そのいくつかが芽を出し、大きく育ちました。大きくなった藪はたくさんの動物の隠れ家、命が集い、憩う場所になりました。

この種のこと、私たちは今日どのように理解しましょうか?種とは私たちの中に眠る、新しい可能性そのものではないでしょうか。教会はたくさんの可能性を持っています。教会は惜しみなく様々なことを試すことが必要です。種は蒔かないと芽を出しません。やってみないと芽が出るかどうかわからないのです。うまくいくことと、いかないことがあるでしょう。しかし聖書は言っています。挑戦しなさいと。私たちは新しい礼拝へ、新しい神と人との出会いへ、いろいろな礼拝の持ち方、神と人とのコミュニケーションのあり方を、種蒔きの様に、大胆にチャレンジしてみてはどうでしょうか?どんな礼拝なら、人と神様が、より深く、温かく出会うことができるのでしょうか?

そしてあなた自身のこととしても考えてください。あなたは小さな種をもっています。それは今蒔くべき種です。それを蒔くとしたら、それはどんな一歩ですか?

この後、主の晩餐を持ちます。全員でこのコミュニケーションに参加しましょう。そして1分の黙想を持ちます。それぞれに感じたこと、神様への応答をぜひカードに書いてみてください。