「変わり続ける礼拝」マタイ13章44~50節

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

マタイによる福音書13章45~46節

 

今月は「礼拝」をテーマに、もっと神様とのつながり、人とのつながりを深くする礼拝を探し求めています。今は礼拝で「こどもの足音は平和の音」と呼びかけていますが、20年前の週報を見ると「静かに席につきましょう」と書かれています。また「半徹夜祈祷会」の案内が記載されています。どんな祈りがあったのでしょうか?教会や礼拝のあり方は20年前と大きく変わってきています。

神様は、教会はずっと今のままでいい、いまの形が完成とは思っていないはずです。礼拝は神様と私たちを結びつける時間です。大事なことはより深いつながりのために、さまざまな礼拝を試してゆくことです。神様はその試みの中で良いものを残し、育ててくださいます。そして変えるべき部分を変え、やめるべき部分を取り去ってくれるでしょう。それは私たち一人一人の人生にも言えることでしょう。

今日は天の国のたとえという話です。天の国とは神様と人間の深い結びつきが実現している場所のことです。神様は死んだ後ではなく、この私たちがいま生きる地上での結び付きを大事にしています。

最初のたとえは、畑で宝物を見つけた人の話です。彼は宝を見つけ、その喜びのあまり、畑全体を買い取りました。神様はあなたの良いところも弱いところも、全部抱きしめてくださるお方なのです。二つ目のたとえは、真珠の話です。ある日商人は小さな一粒の真珠に出会い、その一粒に人生のすべてをかけます。神様はあなたのいいところを誰よりも早く見つけ、それに全力の愛を注ぐお方です。三つ目のたとえは魚の話です。ある人がたくさんの魚を獲りました。彼は良い魚は器に入れ、悪い魚は捨てました。このように神様に出会った私たちは、神様によって、私たちの心の中にある、悪い部分をすべて選り分けられ、焼き尽くされるのです。そして私たちの心の良い部分だけが残されるのです。この三つのたとえは、少しずつ違うことを語っています。神様は全てを受け止め、小さな良いものを見つけ愛を注ぎます。そして良い部分だけを残すのです。これが私たちに示された天の国です。

この礼拝も同じです。神様は私たちの礼拝のすべてを受け止め、小さな礼拝を見つめ、大きな愛を注いでくださいます。そして私たちの礼拝を変えて下さいます。

今日の個所、みなさん自身の人生にはどう響くでしょうか?神様はあなたの中に宝物を見つけてくださるお方です。みなさんの中にはどんな真珠があるでしょうか?神様は神様はあなたの良い部分を輝かせ、悪い部分を焼き尽くしてくださると約束しています。では、みなさん自身は何を宝としますか?何を宝として、何を真珠として、何をいらないものとしますか?

教会の礼拝はどのように変わってゆくのでしょうか?教会とみなさんの人生に神様はどのように絆を持とうとしているのでしょうか?