自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。
マタイによる福音書20章1~15節
10月はSDGsをテーマとしながら聖書を読んでゆきます。SDGsとは「誰も取り残さない」ための17の目標です。教会は神の家族として、どう世界に関わったらよいのでしょうか?無関係ではありません。今、世界では10人に1人近い子どもが働かされています。児童労働は学ぶ時間を奪い、貧しさと不平等を連鎖させます。ガーナのカカオ農園ではこどもたちが重い荷物を背負っています。こどもたちが働かなければいけない理由は、先進国がカカオを安く買いたたくからです。
このような世界で私たちは何ができるでしょうか?聖書の物語に聞きましょう。ぶどうは収穫の時期、すばやく収穫をしなければいけません。朝からたくさんの人が雇われました。しかし夕方になっても声がかからない人がいました。「自分は必要とされない」という痛みを感じたでしょう。そこに主人が現れ、雇われました。彼はそれを喜び、一生懸命働いたでしょう。しかし日当は朝から働いた人も、夕方から来た人も同じでした。早くから働いた人は、これに抗議しました。しかし主人は言いました。「いくら払うかは私の自由だ」。その言葉は慰めでしょうか?横暴でしょうか?
このたとえは伝統的には主人=神、労働者=人間と解釈されてきました。神様は業績主義、成果主義ではありません。神様は取り残され、役に立たないといわれる人に声をかけ、役割を与え、用いて、恵みをくださるお方なのです。しかし、このたとえにはもう一つ見落としてはいけない労働問題の背景が含まれています。
雇用主が真っ先に欲しがるのは安い労働力です。黙って、安く働きそうな人から順番に声をかけたのです。きっとこの中に働かざるを得ないこどもがいたはずです。今も世界でこどもが働かされるように、このぶどう畑でもこどもたちが働かされたでしょうか。勇気のあるこどもが声をあげました。でもすぐに主人に恫喝されました。圧倒的に強い立場の雇用主が、自らの正しさを振りかざし、自分の思う様に給与を決めてゆきました。雇用主は人々の働きがいとやる気を奪いました。「私は正当に扱われていない」。その感覚はとても大事です。不平等への敏感さは、人を守る力になります。それはこのままの社会でいいの?という疑問につながるはずです。
もちろんここでは神様の愛が語られています。でもこのたとえが投げかけているのはそれだけではなく、不平等やひずみに苦しむ人々が描かれている人です。たとえは、神様は弱いもの、後回しにされるもの、小さいこどもを愛するお方、では地上ではどう?と問いかけています。アフリカの子どもが働き、私たちが安くチョコレートを食べる。この世界のままで、いいのでしょうか?私たちこそこの主人のように、カカオ農場でこども不当に働かせていないでしょうか?聖書は、私たちに問いかけています。「あなたは、この主人と同じではないか?」と。
聖書は最後に「あなたはわたしの気前のよさをねたむのか?」という問いかけています。あなたはこの主人をどう思いますか?憧れますか?ねたみますか?