『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」マルコによる福音書12章26~27節
今日は召天者記念礼拝です。すでに神様のもとにある仲間たちを、静かに思い出す礼拝です。みなさんは自分の“命の終わり”を想像したことがありますか?もし自分が死んだら、どんなお葬式にしたいですか?教会の門の前の新しい看板には「ここで、キリスト教式の葬儀ができます」とあります。私たちの教会ではクリスチャンかどうかに関わらず、地域の方がキリスト教式の葬儀をすることができます。
キリスト教にとって“死は終わり”ではありません。神様が下さった命の旅の“通過点”です。神様のまなざしの前には、“生きている者”も“死んだ者”もありません。神様の愛は変わりません。これは永遠と言えるでしょう。ぜひみなさんの葬儀を教会でさせていただけませんか?きっと、神様の元に帰り、永遠に神様の愛の中にいることを強く感じることができるはずです。
今日の聖書個所でイエスはサドカイ派という人から挑戦を受けています。それは人間は死んだらどうなるのか?という問いです。サドカイ派の人たちは「死んだら終わり」その存在は消えてなくなると主張しました。イエスはそれになんと応えるでしょうか?27節でイエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ」と言います。イエスもやはり、死んだらその存在は終わりだと思ったのでしょうか。
しかしゆっくり読むと違うということに気が付きます。26節には「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言葉があります。彼らはもうすでに、数千年前に地上の生涯を終え、死んでしまった人々です。つまりイエスが言っているのはこうです。神様は、生きている者の神様だ。そしてイエスはアブラハム、イサク、ヤコブは死んでいないのだ。あのご先祖は、神様のもとで今も生きているのだと言うのです。神様のもとで永遠に生き、大切にされるのだ。死んで終わりだと思うな。それは大きな思い違いだと言っているのです。このように人は神のもとで、永遠の愛のもとで生かされ続けてゆくのです。
今日は亡くなった方の写真を飾っています。この方たちについてイエスが伝えている確かな事、それはこの方たちは、神のもとでずっと生きているということです。確かに地上での命は終わりました。でも神様はずっとその存在を大切に思い、愛し続けています。私たちはそれを、永遠の愛と呼びます。神様は生死や能力、地位に関わらず、ずっとあなたを永遠に大切にし続けお方なのです。もしあなたが死んでしまったとしても、なお愛のうちに生きる者として、神様の愛のもとに生きるのです。
みなさんは地上の命が終わったらどうなると思いますか?永遠の愛が本当にあると思いますか?あって欲しいと思いますか?永遠の愛の中に生きたいと思いますか?私はすでにあなたの命が神様の永遠の愛のうちにあると信じています。1分間静かな時をもちましょう。
