みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声に励ましをもらいながら礼拝をしましょう。11月からはマルコによる福音書を読んでゆきます。
みなさんは最近、誰かの言葉に心を刺されるような痛みを感じたことはありますか?あるいは誰かを傷つけてしまったということはあるでしょうか?夜、思い出して胸が痛む、あの一言を取り消せたらと願う夜がありませんか?
私はあります。何度もあります。言われた言葉が悔しくて眠れなかった夜があります。そして反対に誰かを傷つけてしまった言葉もあります。日々悔い、祈り、しかしまた語ってしまう。牧師としては致命的な欠陥と言えるでしょう。自分の牧師としての適性の無さを痛感しています。みなさんは周りの人にどんな風に言葉をかけているでしょうか?他者からどんな言葉をかけられているでしょうか?今日はそんなことを考えたいと思います。
マルコ福音書7章14~23節までをお読みいただきました。旧約聖書にはたくさんの食物規定が書かれています。大きく分けて3つの規定があるのですが、その一つが汚れた動物を食べてはいけないという規定です。
旧約聖書において汚れているとされる動物は、例えば豚が有名です。なぜユダヤ教・旧約聖書において豚が汚れていると言われるのかは諸説あるところですが、理由ははっきりしません。ライバル宗教の人が豚をよく食べていたからとか、豚が草食ではなく雑食だからとか、あるいは汚い場所に住むからなどなど。豚が汚れているとされる理由はいくつか考えられていますが、なぜ豚が汚れているのか明確な理由はわかりません。
ただ旧約聖書には問答無用で「豚は汚れている」と書かれているだけです。とにかくその言葉によってユダヤの多くの人々は豚を食べません。
私たちからすると変わった習慣に思えますが、これはユダヤの人々にとって非常に大事な習慣です。ユダヤの人々は歴史上、様々な外国勢力から侵略をされてきました。そのたびに自分たちの宗教や文化が奪われてきたのです。ユダヤの人々は何度も国を奪われ、そのたびに“自分は誰か”アイデンティティーを問われました。
自分たちが何者かを忘れないために、生ける命の神を信じる民であることを忘れないために、食物規定がありました。なぜ食べてはいけないのかという理由は重要ではありません。何を食べて何を食べないのか共通の基盤を持つことによって、人々は強く結びついていました。そしてそれは神様との結び付きを象徴するものでもありました。
どんなに外国に侵略されても、ユダヤ人であるというアイデンティティーは信仰と食物規定の実践によって支えられていました。例えばダニエル書には他国の王様に仕えても食物規定だけは守ったという話があります。食物規定は現代のユダヤの人々にとって大切なものですし、今もなお尊重されるべきものだと思います。
一方でイエスの時代、信仰を守るための掟が、いつしか人を縛るものになっていきました。そして徐々に、食物規定を守ることができない人々がでてきました。本来、食物規定は同じ仲間であることを確認するものだったはずです。しかしそれが分断の原因ともなり始めました。自分達の連帯を確認するはずだったの食物規定を、他者を排除する理由にした人がいたのです。そのように食物規定は分断の材料にされてしまいました。
イエスの時代、食物規定を守らない、守れない人は汚れた人、罪人と呼ばれるようになりました。食物規定を守らない、守れない人は、あなたは私たちの仲間ではないと言われ、一緒に食卓を囲むことを拒否されたのです。
イエスはどうだったでしょうか?イエスはその境界線を静かに越えられました。イエスが汚れているとされているものを食べたかどうかはわかりません。しかし律法を守らない、守れない、汚れているとされた人、罪人と呼ばれた人と共に食事をしたという記述は繰り返しあります。ユダヤ人からすると、それはタブーとされた行動でした。決して見習ってはいけない汚れた行動でした。イエスはその境界線を越えてしまったのです。その指摘は「なぜ罪人と食事をするのか」という言葉で聖書に残されています。
イエスは汚れていると言われ続ける人々と一緒に食事をしました。そのように食事をした上で言います。15節、人を汚すのは外からくる食べ物ではないと。イエスは神様が創造したものを食べるのだから、汚れるはずはないと言いました。どんなものを食べても、みんな同じように、全て腹を通って外に出てゆく、だから何かを守れないからと言って、汚れた人間だということではないと言いました。
この言葉は、食物規定の無い私たちからすると、当然の言葉のように聞こえます。しかしこの言葉、汚れているとずっと言われ続けた人々にとってはどんな響きを持ったのでしょうか?それはきっとその人々を勇気づける言葉、人々を強く励ます言葉になったのではないでしょうか?“汚れている”と呼ばれ続けた人々がいました。でもイエスは、私はその人たちを汚れているなんて思わない、それによって差別される必要はないと言いました。その言葉は、どれだけ人々を励ましたでしょうか?私はあなたの仲間だという言葉は、人々にとって大きな励ましになったはずです。イエスはこのように、分断ではなく共に生きることを目指したお方でした。イエスは、分けるより、つなぐ方でした。
そしてイエスは続けて言います。むしろ人間を汚すのは食べ物ではなく、人間の内側から、内面から出てくるものだと。人間の内側から出て来て、相手を汚すものとは何でしょうか?みなさんは何だと思いますか?
私の心に浮かんだのは、街頭で聞くあの荒い言葉でした。「外国人は出ていけ」「自分の国に帰れ」という言葉は、日に日に増えてきており、人々の心を蝕んでいます。さまざまな社会課題の原因を外国人に押し付ける言葉です。自らの不満をぶつける標的にしています。私たちの心からは、あんなに汚れた言葉が出て来るのです。そしてその言葉は相手も蝕む、他の人も汚すのです。
私はそういう性質を自分自身が持っていることを知っています。私が心無い言葉を語ってしまうのは、私が豚肉を食べているせいではありません。それは私の心・私の内側に問題があるからです。
私たちが何を食べるかはとても重要なことですが、私たちの口から何が出るか、私たちが何を語るかはもっと重要な問題です。私たちはどんな言葉を語るでしょうか?
みなさんにもおたずねします。最近どんな言葉を語っているでしょうか?私自身にも問いかけています。私の言葉は、相手の心を蝕む言葉となっていないでしょうか?それを自分自身に問いかけると言葉に詰まって、もう何も言葉が出て来なくなってしまいます。何を語ればよいのかわからず、言葉が出ません。
では、反対に考えてみましょう。私たちにとっての清い言葉とはどんな言葉でしょうか?相手を清める言葉とはどんな言葉でしょうか?清い言葉とは、貴族のように優雅で美しく、上品に話すことではないでしょう。
清い言葉。それは、イエスのように、誰かをそっと包む言葉です。傷ついている人を受け止める言葉です。仲間外れにされている人、居場所を求めている人を受け止める言葉です。相手をそっと励ます言葉です。相手の良さを引き出すような、勇気を与える言葉です。相手の中にある光を見つける言葉です。それを清い言葉と呼ぶのでしょう。
イエスの「人を汚すのは外からくる食べ物ではない」という言葉、これはまさに清い言葉でした。追いやられた人を励ます、愛の言葉でした。そのような他者を励ます言葉こそ、清い言葉と言えるのではないでしょうか?
私たちが本当に語るべき言葉はなんでしょうか?私たちは、誰かを照らす言葉を語りたい。励まし、愛する言葉を。私たちは相手を清める言葉を。相手を汚れていると評価する言葉、相手を悪い点を指摘する言葉ではなく、相手を受け止め、愛し、励ます言葉を語りたいのです。
そして私たち自身もそれぞれの1週間で、誰かからの励ましを必要としています。私たちは他者からの励まし無しに歩むことができません。迷いや後悔を受け止めてくれる仲間。前へ押し出してくれる一言。その支えがなければ歩けません。私は私を清めて、励ましてくれるような言葉を必要としているのです。
だから私たちは互いに励まし合う人でありたいのです。神の子であるイエスが私たちに伝えたこと、それは互いを認め合うような、そして励まし合うようなの言葉を語り合う事だったのではないでしょうか?私たちは互いに聞き合い、祈りあい、励まし合う1週間を送ってゆきましょう。
私たちはこれから主の晩餐を行います。清い人だけがこのパンを食べるのでしょうか?そうではありません。このパンを食べるのは、内側にさまざまな痛みや傷を持った人、そして相手を傷つけてしまう鋭さをもった人です。
私たちは清いからこのパンを食べるのでしょうか?そうではありません。清くない私が、この愛のパンに招かれています。
このパンを食べると清くなるのでしょか?そうではありません。これはイエスが汚れていると言われてた人々を、受け止め、励まし、愛を語ったことを思い出すために食べるパンです。
私たちはこのパンを食べて、イエスの温かい抱擁と、励まし、愛を受け取りましょう。そして私たちもイエスのように、他者を励ます者として生きてゆくことができるように、願いながら食べましょう。神様は今日、全員がパンを食べ歩みだすことを導いています。このパンを食べて、互いを愛し、互いを励まし合いましょう。1分間の黙想の時を持ちます。それぞれにこのみ言葉に思いを巡らせましょう。
