【全文】「望みを持って生きれるか」マルコ13章1~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声は、希望のしるし。今日もこどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。

みなさんには心のどこかに、今そっとうずいている“痛み”があるでしょうか?私たちには普段お互いに口にしない、人には簡単に口にできない悩みや痛み、不安がそれぞれにあるものです。本当に深い痛みは、人に話すどころか、自分でも考えたくなくなるものです。祈って欲しいと思う事こそ、伝えることができない難しさ、もどかしさがあるものです。私にも胸にひっかかっている失望があります。この教会の今後の計画についてバプテスト連盟の理事会と意見の相違があります。そのことに悩み、痛み、不安を感じています。もちろん感謝もしています。平塚教会のことで、たくさんの時間を割いてくれた。でも私たちの思い描く計画には届かないかもしれない。感謝と痛みが混ざった複雑な思いを持っています。教会の将来のことは、神様が導いてくださると信じます。でもやはり不安なものです。この先のことを祈ります。

私たち人間の人生には深い悲しみや不安があります。死別、挫折、不条理、人間関係、失敗、それぞれに深い悲しみがあります。私たちの人生には数えきれない苦しみがあります。そのような苦しみの多い人生の中で私たちは“希望”“望み”を持って生きることができるのでしょうか?今日は聖書から生きる希望について考えたいと思います。

 

マルコによる福音書13章1~13節までをお読みいただきました。当時エルサレムには荘厳な神殿がありました。その神殿はイスラエル全体の象徴でした。神殿はエルサレムの真ん中に立ち、金色の光を放つ巨大な建物でした。金色の神殿は太陽の光が反射するとまぶしくて目を向けることができないほど輝いたと言われています。神殿はユダヤの人々の誇りでした。信仰の中心であり、心のよりどころでした。繁栄の象徴でもありました。

一方、神殿には別の意味もありました。黄金の神殿は人々から集めた税金でできていました。その輝きは、多くの人の汗と涙の上に成り立っていました。人々の間には複雑な思いがあったはずです。私は十年ほど前、大阪でホームレスの方と夜の公園で話したことがありました。彼は高くそびえる高層ビルを指して『あれ、俺が作ったんや』と笑いました。その言葉に、私は胸をつかまれました。輝く建物の下には、見えない人たちの働きがある。その風景は、当時の神殿に重なるはずです。神殿は様々なものを象徴していました。

それは何の象徴で、何の結晶だと言うべきでしょうか?神殿は人々への重い税金で建てられた血と汗と涙の結晶でした。でも神殿は人々の信仰と神への確信の象徴でもありました。神殿は民族のプライドの結晶でした。それは祝福の光と、影の痛み、その両方を抱えた場所でした。神殿はきっと感謝と痛みが混ざり合った場所。すべての信仰とすべての感情が複雑に凝縮された場所、それが神殿でした。イエスはこの神殿を肯定的にはとらえませんでした。壊して3日で再建できると言ったり、神殿の経済システムに反対する行動をとったりしました。それは人々に大きな反感を起こしました。

エルサレムの人々が何よりも心を痛めることとは何だったでしょうか?それは自分たちのすべてを象徴する神殿が崩壊することでした。信仰も矛盾も誇りも、すべてを包含したもの、その象徴が崩れ落ちる時、人々は自分の心の柱までもが折れたように感じたでしょう。そしてそれは現実になりました。イエスの死と復活の後、西暦70年、神殿はローマ帝国によって徹底的に破壊されました。神殿は戦火の中で崩れ、燃え、ついには灰になってしまいました。エルサレムの多くの人が殺され、すべてのものが略奪されました。人々は神殿と家族を一度に失ったのです。そこには一つの壁だけが残されています。その壁は今でも「嘆きの壁」と呼ばれています。

人々の喪失感はどれほどのものであったでしょうか?これ以上ない喪失感。人々はまさにこれが終末、これが世界の、人生の終わりだと感じたに違いありません。マルコ福音書は神殿が崩壊した直後に書かれたと言われています。信仰の中心と家族を失った深い悲しみの中にある人に語りかけています。マルコ福音書が書かれた時代の人々は神殿を失い、世界の終わりと思えるような苦痛の時代を生きていました。聖書はその痛みに向けて、語られているのです。聖書は言っています。あなたにも、思いがけない苦しみが訪れる時がある。惑わす者、戦争、地震、食糧危機が起こる、それは苦しみのはじまりだ。鞭を打たれるような苦痛。家族の間のいざこざ。周りの人すべてから恨まれる経験。ありとあらゆる苦難があなたを襲うだろう。

しかし聖書は苦しみだけではなく、望みも語っています。その闇の中に細い光を見つけます。神殿が崩壊するずっと前、苦難が起こるずっと前、イエスが語っていた言葉があります。それが13節「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」という言葉です。イエスは『ただ耐えなさい』と言ったのではありません。イエスは苦しみの先に、救いが待っていると伝えようとしています。イエスはこの先に、絶望的な苦しみがいくつもある、それでもその先に必ず息をつける場所があると教えています。

当時、神殿崩壊を目のあたりにして失望していた人々は、イエスの言葉を信じることができたでしょうか?耐え忍ぶものは救われる、そのことを信じることができたでしょうか?戦争、飢餓、地震、家族の分断、挫折、失敗。その中で人々は神の希望を最後まで信じることができたのでしょうか?希望は続いてゆきました。今私たちの教会があるのは、希望が今まで続いてきたからです。人々はこれまで希望を信じることを諦めずにいました。その希望は続き、私たちにまでつながっています。最後まで耐え忍ぶ者がいて、今その希望が私たちまで続いているのです。

深い悲しみを意味する神殿崩壊を考えます。私たちにとっての“神殿”とは何でしょうか?心の中にある大きなもの、心の拠り所となる場所、大切に思っていた人、住んでいる家、職業、信頼していた人との関係、健康、お金。それらが崩れる時、それらを失う時、それは私たちにとっての神殿崩壊かもしれません。あなたには、どんな“崩れた神殿”がありますか。私たちが人生設計の前提にしていたことが壊れてしまうこと、それが私たちにとっての「神殿の崩壊」かもしれません。何かが終わり、もう戻らないと感じる瞬間。そのとき、私たちはどうやって立ち上がることができるのでしょうか。私にも、心の中で崩れ落ちるような体験があります。誰にも言えず、ただ夜中にため息だけこぼれた時期がありました。しかしそのたびに、もう壊れたと思った計画から、神様はまた新しい別の道を与えてくれます。それが有って欲しいと願っています。

私たちは苦しみや悲しみ、挫折の中で何を信じて生きるのでしょうか。足元が揺らぐ体験をするとき、私たちは何に頼って歩いていくのでしょう。私たちは神様がこの先に希望を準備していると信じ続けることができるでしょうか。信じられなくてもいい。ただ信じたいと思えるでしょうか?

神様が沈黙しているように思える時、祈っても返事がないように感じる夜があります。神殿崩壊の時がそうでした。祈っても応えが聞こえない。その沈黙に、どんな意味があるのでしょうか?イエスもまた苦難の中で沈黙の神と向き合った方です。10節にあるようにイエスは引き渡され、連れてゆかれました。そして十字架に掛けられ、沈黙の神と向きあいました。イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死んでゆきます。私たちはその意味を問います。でもそれはただの崩壊ではありませんでした。復活という光へとつながってゆきます。神殿が崩壊しても新しい教会が立ち上がったように、イエスが十字架で死んでも復活して再び立ち上がる様に、私たちには希望が待っているはずなのです。

あなたはつらい出来事が起こる日々、その中で神様が希望を備えて待っていることを信じることができますか?その希望まで耐えることができますか?しんどいかもしれません。一人で待つのは大変かもしれません。私たちは共に希望をもちましょう。あなたひとりで耐えるのではない。私たちは共に信じ、待ちましょう。苦難の中で、共にこの先に希望があると、信じましょう。私たちは互いに苦難の中にいながらも、共に祈り、共に希望へと立ち上がりましょう。希望を信じ続けましょう。神様の希望の物語はいつ私たちに始まるのでしょうか。私たちは仲間と、家族と、友人とどのように共にその希望を待つことができるでしょうか?どのように共に苦難を生きることができるのでしょうか?

いま、あなたの胸の奥で引っかかっているものは何でしょうか?言葉にならないその思いを、神様にならオープンにできますか?神様にその思いを差し出すとしたら、どんな祈りになるでしょうか?誰にも打ち明けられない思いを打ち明ける、そんな神様がいるということだけでも、すばらしいことかもしれません。私は信じたい。小さくても、かすかでも、この先に差す光を。一緒にその光を待ちたいと思うのです。1分間の黙想の時を持ちます。ぜひそれぞれがみ言葉から感じたことを、書いてみてください。お祈りします。