みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと共に礼拝できること神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、命を感じながら礼拝をしましょう。
今日からアドベントに入ります。キリスト教のカレンダーではクリスマスの前の4週間をアドベントと呼び、クリスマスを迎える心の準備をする期間、クリスマスを待ち望む期間としています。この時期が来ると1年はあっという間だったと感じます。今年もあと1ヶ月、やり残したことはなんですか?心に引っかかったままのことはありませんか?
私が小学生の頃にあった、良く覚えている思い出を紹介します。私は母が出かけるので、一人で留守番をすることになりました。母は「帰ってくるまでに宿題を終わらせなさい」と言いました。私は「わかった」と応え、テレビを見ていました。母はドアの鍵をガチャっと閉めて出てゆきました。しばらくテレビを見ていて「そろそろ宿題をやらなきゃだめだな」と思いました。「早くやった方がいいな」と思いました。けれど、リモコンを持つ手が動かない。おもしろかったわけではないのに。しばらくしてまた時計を見て「ああ、もうやらなきゃ」と思いました。それでもテレビを消すことが出来ませんでした。こどもでもすべきことはわかっていました。テレビを消さなければならない。もうこれ以上テレビを見るべきでないことをわかっていました。「さあもう時間だ」「さすがにもう帰ってくる」「もうはじめないといけない」「このままだと怒られる」と思いました。そわそわした気持ちになりました。でもテレビを消すことができなかった。その瞬間、カチャッという鍵の音が部屋に響きました。私はあわててテレビを消して、宿題のノートを広げました。その後は覚えていません。怒られたのか?いまからやっているのか?と言われたのか。でも待っていた時のあの葛藤は、いまでも覚えています。そしていまでも似たような経験があります。
大人になっても変わりません。やるべきことを“やる”までの一歩が、なぜか重たい。さあやろうと思うまで、さあやろうと思ってから手を動かすまで、時間のかかる私たちです。格言のような言葉はたくさんあります。「いつやるか、今でしょ」「明日やろうは、ばかやろう」「始めたら終わったも同じ」「やれば終わる」…。分かっていても、なぜか腰が上がらない。そんな私たちです。そんな私たちを、神様はどんなまなざしで見ておられるでしょうか?やるのか、やらないのか、もどかしく私たちを見ているでしょうか?私たちはなすべきことがたくさんあります。それを終わらせたいのです。
年末が迫ってくると、改めてやめること、終わらせることというのは大事なことだと感じます。すべきでないことをやめる。なすべきことを終える。それは大事なことです。なすべきことが終わった時には心地よさ、すがすがしさを思い出して下さい。今、みなさんがなすべきことは何でしょうか?終わらせるべきことはなんでしょうか?今日は聖書から終わることについて、最後の時、終末の時について考えたいと思います。
今日はマルコによる福音書13章21~37節までをお読みいただきました。この個所はイエスが「終末」終わりの時について述べた箇所で、イエスの終末思想を示す箇所と言われます。キリスト教では長年、終末思想が大切にされてきませんでした。その理由は人類の文明が少しずつ発展してきたからです。だから“終わり”なんて、遠い先の話だと思っていました。人類の発展と共に、聖書の終末思想は忘れ去られてゆきました。しかしやがて、世界を舞台にした大きな戦争が起きるようになってきました。そしてついに核兵器が生まれました。世界で核兵器開発競争が始まります。人類を何度も絶滅させるほどの核兵器が存在するようになりました。文明が発展すれば世界は良くなると信じていました。けれど現実は違いました。
人間はその時、ようやく終わりに目が向くようになりました。終わらない神の愛だけに目を注ぐのではなく、終わってほしいものも、確かにある。戦争、核兵器、気候変動、男女格差、貧困、どれも早く終わって欲しいものです。早く終わらせるべきものです。ますます混沌となってゆく世界で、いつしか人々は、世界のゆがみの終わりを期待するようになりました。すべてが終わる時が来る、キリスト教の終末思想が再び見直されるようになりました。
私たちは誰一人取り残されることのない世界を求めています。私たちは完全な平和、完全な公平、完全な愛に満たされた世界を求めています。すべての争い、分断、不平等が終わる日を期待しています。でもそれらを終わらせることの難しさも知っています。世界のゆがみのすべてを終わらせるのは人間の力だけでは難しい、多くの人がそう感じています。だからこそ人々は終末の日を期待するようになりました。神様が起こす、完成の日、終末を期待するようになったのです。人々は終末を、平和な毎日の終わり、絶望の日ではなく、争いが終わる日、希望の日として待ち望むようになったのです。私たちはそのように終末を期待しています。終末を、希望の日として待ち望んでいます。
それは私たちの教会の信仰告白の11番「終末の希望」にも書いてあります。終末は希望なのです。戦争や不正義が正される、その時が来る、イエスは必ずもう一度来て、そのような完成・回復・正義をこの世界に起こしてくださる。それが私たちの終末の希望です。みなさんもそんな終末を待ちたいと思いませんか?悲しい事、不条理、不平等、それらに終わりがあって欲しい、そう信じたくありませんか?
32節によると、その時がいつかは誰も知らないのです。その時を知るのは、神様お一人。いままでに何度も、いついつにそれが起こると言う人がいました。しかしこれまでは、それらはすべて嘘でした。私たちはどのように終末を待ったら良いのでしょうか?
34節のたとえではこうあります「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当て、責任を持たせる」と。主人は僕たちに仕事と責任を割り当てたのです。このたとえでは主人が返ってくるまで、僕たちはその家族の命と家、畑を守るように、それぞれに役割が与えられました。いつ主人が返ってくるかはわかりません。いつか主人が返ってくるその日まで、僕たちは命と財産を主人からゆだねられたのです。
僕たちにとっていつ主人が帰って来るか、何月何日か、これが兆候だと騒ぐのは無駄です。僕たちにとって大事なこと。それはただ慌てずに、自分に託された務めを、丁寧に果たしていくことでした。僕たちは役割を終えるために自分たちがなすべき事は何かを考えたのです。役割を果たすとは、未来を考えるということにつながります。僕たちは未来に、そしてその先にある“完成”に目を向けました。なすべきことが終わった未来、その未来を見ながら、今なすべきことに取り組んだのです。
クリスマスは、2000年前の過去にイエス・キリストが生まれたことを記念する日です。私たちは2000年前にイエスが生まれたことに目を向けます。でも私たちのクリスマス・アドベントは2000年前の過去の出来事を祝うためだけにあるのではありません。私たちは過去を振り返りながら、未来へと歩むのです。私たちは未来を見て、生きます。私たちは終末の希望を見て生きるのです。そして私たちはそれまで委ねられた役割を精一杯生きるのです。
主人が僕たちに与えた役割、神様が私たちに与えた役割とは何だと思いますか?具体的には書いてありません。イエスのこれまでの教えから考えましょう。イエスは隣人を愛して生きるということを教えました。神様が私たちに与えた役割、それは隣人を愛することです。私たちはすぐに隣人を愛せなくなってしまう存在です。まるで眠さに負けて、眠ってしまう人ように、私たちは気づくと人を愛することを忘れてしまいます。
36節「目を覚ましていなさい」。大事なのは私たちがその愛を眠らせないことです。私たちは愛を眠らせず、愛を目覚めさせ、愛をもう一度立ち上がらせましょう。例えば愛は、誰かの痛みに共感すること、人を励まし勇気づけること。愛は誰かの側にそっと寄り添う事です。私たちは1日1日を大切に生きましょう。今週出会う誰かを精一杯愛して生きましょう。それが神様が私たちに与えた役割ではないでしょうか?私たちは神様から他者を愛するという役割を与えられています。私たちは他者を愛しながら、この不完全な世界が完成する日、終末を待ち望むのです。アドベントのこの季節に、もう一度、心を澄ませて考えてみましょう。
私たちは今、何を終わらせるべきでしょうか?私たちが本当に終わらせるべきものを考えてみましょう。私たちは愛の無いことを止められることができるでしょうか?偽りの愛をやめることができるか?
私たちは今、何をすべきでしょうか?本当にすべきことは何かを考えましょう。私たちはどのように他者を愛することができるでしょうか?どのように神からの役割を生きることができるでしょうか?
イエスの語ったたとえでは、主人は、まだ帰ってきません。つまりまだ僕たちの役割は終わっていないのです。僕たちはまだ待ち続けています。役割を果たそうとしながら、祈りながら、他者を愛しながら、主人を待っています。私たちも神の僕です。この先に、きっと希望の終末が来ると信じて、歩み続けましょう。
みなさんには今日の言葉、どのように響いたでしょうか?どうぞ思い巡らせてみてください。お祈りします。
