みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、当たり前ではないことです。まずそれを神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたち小さな足音や笑い声が響く、いのちの満ちた教会です。こどもたちと一緒に礼拝をしましょう。クリスマスの前の4週間をアドベントと呼び、クリスマスを迎える心の備えをしています。街にも、心にも、クリスマスが近づいてきました。教会では21日にクリスマス礼拝とお楽しみ会を予定しています。たくさんの人と祝うことができるのを楽しみにしています。
みなさんはそれぞれの家でクリスマスを祝う予定はありますか?みなさんはクリスマスにショートケーキは食べますか?コンビニやテレビではクリスマスにショートケーキを食べませんか?予約しませんか?という広告があふれています。
私は最近、クリスマスにショートケーキを食べるという習慣があるのは日本だけだということを聞いて少し驚きました。日本でクリスマスにショートケーキを食べるという習慣は、不二家のキャンペーンがきっかけだったそうです。サンタクロースと色が似ている、紅白でお祝いにふさわしいということから、日本ではクリスマスの定番となったそうです。七面鳥を食べる習慣は、身近なフライドチキンに、家族で過ごすという習慣は、ロマンチックな日として恋人同士の日となりました。気づけば私たちは、日本独特のクリスマスを過ごしています。
でも形が変わっていく時というのは、本当に大切にしているものは何かを問われる時でもあります。「これだから日本人はだめだ」そう批判することは、とても簡単です。けれどもそれで何かが伝わるでしょうか。聖書にはサンタクロースもクリスマスツリーも登場しません。クリスマスが12月25日だったとも書かれていません。ショートケーキやチキンを食べるのが本当のクリスマスではありませんと言うのは簡単です。
でも私たちクリスチャンは日本の文化に対抗したいというわけではありません。私たちは今生きるこの日本の文化の中から、少しでもイエス・キリストが伝わることを願っています。何を食べてもいいのではないでしょうか。そして大切なのは「何を食べるか」より「どんな思いで迎えるか」ではないでしょうか。私たち自身がクリスマスをイエスが生まれた日という意味を忘れずにいることが大事です。クリスチャンにとって、騒がしさの中でも、イエスが自分の胸の中にいることを静かに感じる日とすればいいのではないでしょうか。
そして少しでも、ほんの少しでもこの日本のクリスマスからイエス・キリストが伝わればいいと思います。伝えたい。人生には希望があることとその安心を。伝えたい。心の支えとなるみ言葉を。この文化の中から、イエス・キリストが伝わってゆくことを祈っています。
伝統的に教会では「教会で本当のクリスマスを迎えましょう」と伝えてきました。しかしそこには“自分たちこそ正しい”という響きがあります。「教会だけが本当のことを知っていて、あなたは知らない、あなたは間違っている」という意味も帯びていました。こういったフレーズは相手の習慣の否定として響き、本当に伝えたいことを伝える機会を逃してしまっていたのではないでしょうか?私は他者の文化と習慣を尊重しながら、共存しながら、本当に大切なことを伝えたいと思っています。今日本にあるクリスマスの文化・ショートケーキの文化を大切にしながら、キリスト教の持つクリスマスの意味、イエス・キリストの希望を伝えてはどうでしょうか?
実は聖書にも、文化や習慣にずれが生じた時のことが書いてあります。2000年前の人もそれに悩んでいました。そんな時、イエスはどう語ったのでしょうか。今日はそこを聖書から一緒に見てゆきたいと思います。
聖書マルコによる福音書7章1~13節までをお読みいただきました。ある時イエスたちのもとにエルサレムから律法学者が来て言いました。「食事の前に手を洗わないのはおかしい」。これは私たちの習慣とも共通しています。衛生の観点から、食事の前に手を洗うのは当然のことです。しかし当時の人と私たちで手を洗う理由は大きく違いました。エルサレムの律法学者はこう考えました。体が宗教的な意味で汚れているから手を洗わなければいけない。日本風に言うと、手を清めてからではないと食べてはいけない、そうしないと汚れるといった意味です。
しかし食事の前に手を洗って汚れを清めなければならないという決まりは、聖書のどこにも書いてありません。聖書にはそのような記述は見当たらないのです。つまりそれはエルサレムの律法学者が考えだした習慣だったのです。ただそのようにすべきと考える人が、毎日している習慣だったというだけのことです。しかしエルサレムから来た律法学者は自分の習慣を押し付けました。自分のしている習慣を全員が守るべきものして、人々に「こうあるべきだ」「これが本当の食事の方法だ」「これが本当に正しい方法だ」と人々に押し付けたのです。このような習慣の違いには2000年前の人々も悩んだでしょう。
エルサレムから来た律法学者とは一体何者なのでしょうか?話の舞台となっているのは前の6章53節の続きから考えるとゲネサレトという町です。そこはガリラヤ地方の小さな農村です。つまりここで対比されているのは中央から来たエリートと地方の農民です。偉い先生が言いました「あなたは間違っていますよ」「汚れていますよ」「これこそが本当の食事の方法ですよ」「正しい方法ですよ」そうやって全国を教えて回っていたのです。どこもかしこも訪ねては、相手の習慣や事情を尊重しようとせず、否定して巡り歩いていました。なぜエルサレムのエリートの考えた習慣を庶民が守る必要があったのでしょうか?律法学者が本当に伝えたいことはなんだったのでしょうか?神様の愛?それとも自分たちの正しさ?自分たちの優秀さ?
イエスは6節で旧約聖書イザヤ書を引用してこう言います。「この民は口先では《神》を敬うが、その心は《神》から遠く離れている」イエスは相手の習慣を無視して、自分たちの習慣を押し付けようとした人に、その心は神様から遠く離れていると指摘しました。相手を間違っている習慣の持ち主と見下す姿勢は、神様から心が離れていると指摘したのです。
イエスが伝えた事、神様と心が近くなる事、それは互いに競って、互いの習慣を否定しあうことはではありませんでした。そうではなくイエスは互いを尊重し合うことで、神様と心が近くなると教えたのです。どんな習慣を持っているかは二の次です。イエスは互いを尊重し合う事こそが心が神様に近くなる事だと語ったのです。
コルバンの話も同じです。自分の家族や隣人と分かち合うべきものを神様に献げたと言って、分かち合いをしない人がいました。当然それで困る人が出てきました。神様へ献げたという言葉が、隣人への無責任・無関心の言い訳になっていたのです。神様にきっちり献げ物をしているのだから、人間への責任は果たさなくていいと言う人がたくさんいたのです。それは神様にさえ忠実であれば、どのような生き方をしてもいいという考えでした。
イエスはこれにも反対をしました。神様に献げる事、隣人と分かち合う事、神様と人、どちらの手も離さずに歩みなさいと。どちらも尊重にするようにと伝えたのです。イエスは神様だけではなく、互いも尊重をしあいなさいと伝えたのです。互いを尊重すると、心が神様に近くなるよと教えたのです。
この聖書の個所から私たちはどのようにクリスマスを迎える準備をしたらよいでしょうか?他人の習慣を否定し、押しつけようとすることは、私たちの中にも起こり得ることではないでしょうか?私たちは時々エルサレムから来た人になってないでしょうか?相手を知らない人、間違っている人と見下してしまうことはないでしょうか?
新しいものがよいとは限りません。伝統が悪いとは限りません。私たちは今ある習慣と、その本当の意味の両方を大切にしたいのです。今あるこの習慣を大切にしながら、その先にいる神様に、心を合わせてゆきたいのです。今の目の前にいる人と、その先にいる神様、その両方を尊重する時、神様に心が近くなるのではないでしょうか?
私たちは日本の文化に囲まれながら、ショートケーキと共にクリスマスを迎えます。私たちはそれを否定せずに、その中でどうクリスマスの喜びを他者と分かち合うことができるでしょうか?自分だけが神様に忠実にクリスマスを守ればいいのではありません。クリスマスに他者とどのように喜びを分かち合えるかも大切なことです。
クリスチャンである私たちこそ、そのような神様と人と両方を大切にする、本当のクリスマスを迎えることができるでしょうか?主イエスが地上に生まれた、それが私たちの希望です。貧しい私の心にイエスが来る、それを他者と喜ぶクリスマスを迎えることができるでしょうか?神様と向き合い、隣人と向き合うことができるでしょうか?私たちは身近な人と、あるいは隔たりのある人と互いの文化と習慣を尊重し合い、喜びを分かち合えるでしょうか?互いに愛し合うことができるでしょうか?
私たちはこの後、主の晩餐を頂きます。クリスマスの前に持たれる主の晩餐を特別に頂きましょう。ショートケーキではありませんが、パンとブドウジュースを頂きます。私たちの主の晩餐はすべての人と共に持たれます。神様の存在を感じながら、互いの存在を感じながら、このパンと杯をいただきましょう。
1分間静まる時を持ちます。どうぞそれぞれにこの聖書のみ言葉に思いを巡らせてください。お祈りします。
