【全文】「ファーストペンギンの信仰」マルコ1章1~13節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も、子どもたちの声に包まれながら礼拝をしましょう。アドベント3週目を迎えました。アドベントは、心がゆっくりとクリスマスへ向かっていく季節です。アドベンチャーも同じ語源だと言われています。

みなさんはファーストペンギンという言葉を聞いたことがあるでしょうか?さきほどのビデオで氷山の上のペンギンを見ました。氷の崖の上で、前に進むか戸惑い、身をすくませているペンギンたち、まるで誰かが最初に飛び込んでくれないかと待っているようです。あなたがあの崖の上にいたらどんな気持ちでしょうか?

そしてその瞬間が来ます。最初の一匹が水の中に飛び込みました。思わず「よくやった」と言いたくなる光景です。そうするとペンギンは次々に海に飛び込んでゆきます。ペンギンのアドベンチャーのはじまりです。このようなペンギンたちの中で、一番最初に飛び込んだペンギンはファーストペンギンと呼ばれます。

ファーストペンギンは、誰より先に“未知”へと足を踏み出す存在です。飛び込んだ水の中にはシャチやアザラシ、オットセイがペンギンを食べようと待っているかもしれません。これはとても危険なダイブです。ファーストペンギンとはこのようにもっとも危険を冒したペンギンです。このようなファーストペンギンは「勇気のある先駆者」の代名詞となりました。

私たちの教会もファーストペンギンと言えるかもしれません。地域との新しい関わりを求めて様々な取り組みを始めました。最初は他の教会から「そんなことをして本当に大丈夫?」と心配されることもありました。それでも今は多くの教会が地域とどのように新しい関わりを持つかを、それぞれに模索を始めています。

実は自然界のファーストペンギンは必ずしも勇敢な先駆者だとは限らないこともあるそうです。体を押しあっているうちに、思わず落ちてしまうケース。さらには2匹目が前のペンギンを蹴り飛ばすケース。性格的にまっさきに飛び込むケース。しかしいずれにしてもファーストペンギンは他のペンギンよりもかなり高い確率で他の動物に食べられてしまうのだそうです。

私たちの教会はそのような意味においてもファーストペンギンかもしれません。何か新しいことを始めようと思った時にそれは自分たちの決心だったのでしょうか?もしかするとやむを得ない事由が発端だったかもしれません。あるいは何か見えない力によって、後ろから蹴り出されたり、押し出されたりしたのかもしれません。平塚教会らしい自由さや柔らかさがそうさせた面もあったでしょう。

気づけば私たちも、大きな海へ押し出されるように踏み出していました。私たちの歩みがどんな実りを持つのかは、まだ誰にもわかりません。でも断崖絶壁ぎりぎりで踏ん張るよりかは、思い切って水の中に飛び込んで、自由に泳ぎ回る方がずっと気持ちいいような気がします。新しい宣教を始めるときは、その先頭に立つ教会が必要です。神様の福音の広がりは、ファーストペンギンとなる教会が必要です。神様と仲間に押し出され、時に状況に蹴り出され、神様を信じて飛び込む、そこに新しい宣教が生まれて来るのではないでしょうか? 

今日はみなさんと福音宣教の先駆者について考えてみたいと思います。バプテスマのヨハネは先駆者ファーストペンギンとして、この地上に現れました。その姿を見てゆきましょう。

 

 

今日はマルコによる福音書1章1~13節までをお読みいただきました。イエス・キリストが地上での活動を始める前の物語です。当時は多くの「自称キリスト」がいました。その中でバプテスマのヨハネは非常にユニークな存在でした。彼は「私の後にキリストが来る」そう伝える活動をしていました。

彼は言いました「水に沈み、古い生き方をいったん手放し、新しく歩み始めなさい」。それは水の中に体を沈めることをきっかけにして、自分の今までの生き方を新しくしなさいという教えでした。多くの人が先駆者バプテスマのヨハネに従って、水の中に飛び込んでゆきました。金持ちも、貧しい人も、男も女もあらゆる性の人が、新しい生き方を始めるために。先駆者バプテスマのヨハネに従う様に、まるで“もう一度生まれ直す”ように、水に身をゆだねていきました。

そして「私の後にキリストが来る」そう言っていたバプテスマのヨハネは、イエスに出会うことになりました。しかしその出会いはヨハネの想像するものとは違いました。気がつくと、イエスは人々と同じ列に静かに立っておられたのです。イエスは「私も同じ水に入る」と静かに言われました。そして他の人々と同じ様に、水の中に飛び込み沈む、バプテスマを受けたのです。イエスもそのようにしてバプテスマから新しい生き方をスタートさせたお方でした。

バプテスマのヨハネはその後どうなったでしょうか?彼はユダヤの王の行動に反対の声を挙げ、処刑されてしまいました。ファーストペンギンであったヨハネは、権力の前に孤独に立たされ、命を奪われてしまいました。

イエスもそれをよく知っていたはずです。最初に飛び込んだ者がどうなるのか。自分ももしこのまま活動を続ければ、どうなるのか。それはとても危険な冒険・アドベンチャーだと分かっていました。そこに飛び込めば必ず支配者から目をつけられ、命を奪われるだろう、イエスはそのリスクを知っていたはずです。しかしイエスはその活動を始め、やめることはありませんでした。

イエスはどのようなことを教えたでしょうか?その教えはバプテスマのヨハネと共通することが多くあります。他者と分かち合う事、平和的な行動を通じて社会を変える事は共通した教えです。そしてもちろんイエス独自の教えもありました。

ヨハネが強調したのは、悪と汚れへの厳しい裁きでした。しかしイエスはいつも罪人や病人と行動しました。イエスは弱さを持った他者をいつくしむ「愛」を強調したのです。ヨハネは荒野で孤独に生きるという方法を選びました。しかしイエスは町や村を巡り歩き、人々の中で他者と共に生きるという方法を選びました。ヨハネは良いものと悪い者を二つに分けようとしました。しかしイエスは善悪や汚れと清さを超えて、垣根無く共に生きるという態度を示しました。ヨハネは荒野でイナゴと野蜜を食べました。しかしイエスは人々と共に食事をする生き方を選びました。イエスの伝えたのは、他者を愛すること、他者と共に生きる事、そのような態度・行動だったのです。

イエスはその後どうなったでしょうか?イエスは、愛に生きる道を選びました。その愛ゆえに十字架へとかけられてゆきました。他者を愛する生き方を選ばなければ、そのような苦痛はなかったはずなでした。イエスは、他の誰かが愛を語り出すまで待っていれば、良かったのです。しかしイエスは一番最初に愛を語り、一番最初にそれを実行に移しました。そしてイエスは殺されてしまいました。

イエスは愛を語るリスクを、他者を愛する行動のリスクをヨハネの姿を見て、良く知っていたでしょう。でもイエスは愛に飛び込んでゆきました。愛することが危険で、痛みをもたらすと知っていました。それでもイエスが愛を選んだという勇気は、どこから湧いてくるのでしょう?この十字架は愛に身を投じた証です。そしてその愛の中を自由に歩もうとした証しです。十字架はイエスが愛に生きようと、この世界に飛び込んできた証しです。

2000年後の今、私たちに目を向けましょう。私たちはイエス・キリストに従い、新しい生き方を目指す、他者を愛す、そう決心し、洗礼・バプテスマを受けました。水の中に沈みました。でも本当に自分たちの決心でしょうか?きっとそれは見えない神様の力・聖霊に押し出されたという部分もあったのでしょう。私たちの思いを超えて信仰へと押し出された部分もあるでしょう。

いずれにしても私たちクリスチャンは水の中に飛び込んだ者です。様々な物から自由になって生きる、そこからアドベンチャーを始めた者です。イエスように他者を愛し生きる、その生き方には苦労とリスクがあります。他者を愛することで自分が傷つくことがあります。愛には痛みも伴いますが、その痛みの向こうに、関係がもう一度開く時があります。

みなさんにおたずねします。あなたが最近「愛するのが怖い」「愛に飛び込むのが怖い」と感じた時はいつでしたか?みなさんにとってこの1週間の中で“愛に向かって踏み出す小さな一歩”とはどんなことでしょうか?みなさんが今、恐れている愛の一歩はなんですか?大きくなくていいでしょう。誰かの話を聴くこと、祈ること、それらも立派な“愛へのダイブ”です。

私たちはもうすでに水に飛び込んだ者です。神に押し出され水に飛び込みました。すでに水に入った者として、自由に、愛に向かって泳ぐ者でありたいのです。アドベントの時、イエス・キリストの誕生を待ち望む時を迎えています。私たちは私たちの前に生まれ、愛に生きようと、この地上に飛びこんだイエスを、愛に生きる生き方に飛び込んだイエスを見つめています。

他者を愛する生き方、共に生きる生き方、分かち合う生き方へと歩み出したいのです。互いに支え合いながら、愛の海へ、もう一度飛び込んでみたいのです。愛へ飛び込むとは、恐れの中で他者を愛することです。あなたのペースで自由に泳いでいい海です。アドベントの光の下、もう一度、愛の海へと飛び込んでゆきませんか? 

イエスが選んだこの愛の道を、あなたはどう感じますか?1分間静かな時を持ちます。それぞれの祈りを神様に向けてゆきましょう。