みなさん、おはようございます。今日もこうして礼拝に集うことができること、神様に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も小さなこどもたちの大きな声と共に礼拝を献げましょう。そしてたくさんの方とこの後の食事会を持てること、うれしく思っています。
この1年間、私たちは様々な地域への活動をしてきました。こども食堂、こひつじ広場、こひつじまつり・・・。誰かの一日が、ほんの少しでも温かくなるようにと願って続けています。そして私たちに流れているキリストの愛が、そっと背中越しに伝わればと願っています。
平塚のたくさんの方がこの活動に賛同し、寄付を下さっています。ある方はパンを、ある方はお米を、ある方は野菜を、ある方は毎月自分の誕生日に献金を。支え合って生きる、ということを私たち自身が実感させてもらっています。地域のみなさんの小さな愛が積み重なり、私たちの想像を超える働きになりました。
時々教会には特別な困りごとを持った人が相談にきます。困りごとは様々です。日頃からそういう方に対応していると、そういう困りごとなら、あの団体が得意だ。そういう時はあの人に相談するといい。こういう時は私たちの出番だ。地域と協力できるようになりました。
平塚市内のいろいろな人と協力しながら、困りごとを持った方たちの支援をしています。言葉にすると地域で連携するという言葉ですが、それは仕組みではなく温もりでつながる関係です。このような方が今目の前にいるのですが、そちらは今、支援ができますか?こちらはこんなことまではできるけど。そのような、お互い様の助け合いで、他の団体と協力しながら地域の困りごとに対応をしています。
年末はこういった相談が毎年多くなる時期です。忙しさの中にこそ、イエスの愛の深さを思い知らされる季節でもあります。いつも以上に愛をもって向き合いたいと思っています。
聖書にもたくさんの特別な困りごとを持った人が登場します。今日はその困りごとを持った人を助け合う、支え合う、連携する、そんな視点で聖書の物語を見てゆきたいと思います。きっと物語の中にある愛を見つけられるはずです。
今日はルカによる福音書2章1~7節までをお読みいただきました。イエスが誕生する直前、父と母は住民登録をするためにナザレという町からベツレヘムという町に移動しなければならなりました。ナザレからベツレヘムの距離は約150km。今の距離で言えば、平塚から高崎ほどです。身重の母が何日も移動しなければいけない過酷な旅路でした。あなたなら、この距離をどうやって旅するでしょうか?何とか目的地ベツレヘムにつきました。しかし彼らには宿屋が無かったとあります。泊まる場所が無かったのです。
かつて教会で演じた劇が、今も心に残っています。聖書には詳しく書いていない空白を豊かな想像力で劇にしました。私が見た劇ではこうでした。父が宿屋のドアをたたきます。「泊めて下さい」。そうすると、いじわるな宿屋が出て来て「満室だよ」と言います。次の宿屋にもまた次の宿屋にも断られ、最後は家畜小屋に案内されます。そして母はそこで出産し、イエスはそこにあったエサを入れるカゴ、飼い葉桶に寝かされるのです。
劇は大変心温まるものでしたが、でももう一度今の私たちの目で、この空白を想像してみましょう。ベツレヘムは100人ほどの小さな村でした。そもそも宿屋は多くなかった村です。たとえあったとしてもすぐにいっぱいになったはずです。旅をしている人の多くはホームステイ、誰かの家に泊めてもらったのです。
このような背景から状況を考えると、宿泊先の候補は、元々宿屋ではなく、いくつかある大きな家の客間でした。でもおそらくその客間にもすでに先客がいたのです。そのような状況だったのではないでしょうか?
みなさんはこの物語の空白をどのように想像しますか?私はベツレヘムの町の人々は平塚の人々と同じ様に、温かい心のある人だったと想像します。これを優しさの物語と想像します。
父はベツレヘムの出身でわざわざ住民登録をしに帰ってきました。だとしたら、父を知っている人がいたのではないでしょうか?ベツレヘムの町の人々は意地悪で、無関心だったのではなく、もしかすると、優しさでいっぱいの人々だったのではないでしょうか?
村に入るとすぐに「あれ、ヨセフじゃないか?」そんな声がどこかで上がったかもしれません。「久しぶり。え?婚約して赤ちゃんがいるの?今夜泊まるところあるの?え?まだ決まってないの?泊まれるところがないかちょっと聞いてみようか?」小さな村ではすぐに、そして自然にそんな会話になったのではないでしょうか?
そこから地域の連携が始まったでしょうか?「あそこだったら泊まらせてもらえないかね」「あそこはどうだろうか?」「あの人ならこういう時どうすればいいか知っているはずだ」。思わず手を貸したくなる気持ち、愛が村じゅうを駆け回ったのかもしれません。
ベツレヘム中の人を巻き込んでこの夫婦とお腹の赤ちゃんをほっておけないと思いました。小さな愛が動き出しました。それでもなかなか宿屋も客間も見つけることができなかったのです。でも村の人々はようやく見つけることができました。「うちで良ければどうぞ。うちのひと間、こんな場所でよければ」そう言ってくれる人を見つけ出したのです。
決して満足のいく場所ではありませんでした。でもみんなで一生懸命探した場所でした。この人のためにみんなができることを少しずつ、でも精一杯しました。ベツレヘムの人は意地悪ではありません。みんなが愛を少しずつ出し合って、愛を少しずつ分け合って、なんとか夫婦の居場所を見つけたのです。そこで出産することになりますが、出産にも多くの人の手助けがあったはずです。小さな点と点が少しずつ結ばれ、一枚の絵になるように、村の人々は力を合わせていったのです。ベツレヘムのクリスマスとはそんな小さな愛が重なってゆく物語だったのではないでしょうか?
ゆっくり積み重なるもの、それは愛だけではありません。小さな過ちもまた、積もると私たちを傷つけます。私たちは知っています。小さな罪が積もると、大きな悪が生まれることを。気候変動も、人種差別も一人一人の行動が大きな悲劇を生んでゆきます。一人一人の小さな罪が大きな悪につながります。
でもそれは反対のこともまた同じだということも示しています。それは私たちの小さな愛が積み重なると、想像できないほど大きな奇跡が起こるということです。みんなのちょっとずつの愛は大きな奇跡を起こすとも言えるのです。一人一人の少しずつの小さな愛がとても尊い力へつながってゆくのです。
この物語の背景にもそれが隠されているのではないでしょうか?イエスは決して恵まれた場所に生まれた存在ではありませんでした。でもこんな場所で生まれて不幸だったとは決めつけてはいけません。イエスは、多くの小さな愛につつまれて生まれたのかもしれません。それはとても大きな幸せだったのではないでしょうか?
イエスの誕生は孤独で、誰からも大切にされない誕生だったのではありませんでした。きっとそこには、自分には何の責任もないのに、他人の困りごとに関わって何の利益もないのに、でも真剣に寄り添った人、真剣に隣人を愛した人が、そこにいたのではないでしょうか?
僕で良ければ手伝います。こんな場所でよければどうぞ。これで良かったら使ってください。そう分かち合う物語です。イエスの誕生は孤独で寂しい誕生ではありません。たくさんの人に愛されて、愛のバトンがつながれ、この地上へと生まれてきたのです。クリスマスはそんな小さな愛の物語だったのではないでしょうか?
みなさんはこの物語の空白をどのように想像するでしょうか?考えてみてください。もしあなたがベツレヘムの村の一人だったらどうしましたか?そこで、どんなことができたでしょうか?
時を超えて考えましょう。私たちは、周りにいる、ちょっと困っている人に、どんなことができるでしょうか?
あなたにはあなたの役割で忙しさがあるでしょう。あなたが宿屋になってすべてを受け止めなさい。聖書はそうは言っていません。その時、あなたの小さな手で今できるたった一つのことは何でしょうか?あなたが人の痛みに触れ、何かをしてあげたいと思った時、これならできると思うことはどんなことでしょうか?
その小さな手が愛と言うのではないでしょうか?このクリスマスの物語は、あなたができる愛とは何か?それを私たちに問いかけているのではないでしょうか?私たちはこの小さな愛を、もっと信じましょう。私たちは小さな愛を大切にしてゆきましょう。小さな愛が世界、この街をそっと変えていく。そんな物語を、私たちも生きていきましょう。
またみなさんは、誰からも助けがないと感じる時があるでしょうか?見向きもされず、置いて行かれていると思う時があるでしょうか?きっとそのときあなたに誰かが、小さな愛を持ってやって来てくれるでしょう。足りないものはたくさんあるけれど、一つではどうにもならないけれど、みんな集まれば大きな奇跡となる愛。あなたもすでにそれに支えられているのかもしれません。それに気づかずに、飼い葉桶で眠っているのかもしれません。
聖書とイエスは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と教えています。私たちにできる愛はなんでしょうか?それぞれに思いめぐらせてみてください。
