【全文】「休息をください」マタイ11章28~30節

みなさん、おはようございます。今日もこうして、みなさんと共に礼拝を持てること、神様に感謝をいたします。クリスマスに関係するいろいろな行事が終わり少しほっとしています。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声に安らぎをもらいながら、今日も共に礼拝をしましょう。

 

みなさんは最近、これは楽だ、道具を変えるだけでこんなに快適になった、買ってよかったと思ったものはありますか?新しいスポンジとか、あったかい靴下とか。私が最近これは便利と思ったのは、落ち葉を吹き飛ばすブロワーという道具と、片手で使えるチェーンソーです。

 

私は教会の庭の桜の木の落ち葉に悩んでいました。紅葉している木の葉を見て、あの葉が全部落ちて来ると思わず気持ちが重たくなりました。ほうきで集めるのが大変なのです。時間がかかるのと、腰が痛いのです。葉が落ち始めた時、ブロワーという機械を買いました。強い風が出て、落ち葉を吹き飛ばし、一か所に集める道具です。これを使うと落ち葉拾いはかなり楽になりました。時間も体力も半分以下で終わるようになりました。そして何より少し楽しい気持ちで落ち葉を拾うことができるようになりました。負担が軽くなると、同じ作業でも少し心が明るくなるものです。

 

さらに私は以前買った小型のチェーンソーでまだ紅い葉のついている枝を切ることにしました。道路側に出ている枝を切ったのです。これもかなり効果があり、落ち葉の数が大幅に減らすことに成功しました。道具一つでだいぶ楽になるものです。みなさんにもこんなことありますか?道具ひとつで、こんなに軽くなるんだと驚く時があります。みなさんが最近、肩の荷が少し軽くなった瞬間はどんな時でしたか?

 

落ち葉の季節は終わりました。この後しばらく植物もお休みの時です。植物は寒い間成長を止めて、休眠期となり、春に花を咲かせるまで力を蓄えます。おかげでそれまでお庭の仕事はありません。しばらくお庭の管理は休息が出来そうです。しばし、春までの静かな休息をいただきましょう。春になればまた草が生えてきます。またみんなで草刈りをしましょう。

 

皆さんは休息をどのように取っているでしょうか。もうすぐお正月休みという人が多いでしょうか。みなさんはお正月休みはどのように過ごされますか?楽しみにしていることをしたり、テレビを見たりしますか?寝正月という人もいるでしょう。家族や仕事のことでいつも以上に忙しいという人もいるでしょう。お正月とその前後が心と体を休める時となるように祈っています。実は私自身も、この休むという恵みをしばらくいただこうと考えています。

 

聖書にも働くことと休息についての話があります。そこには道具を変えるだけで、すごく違うよという話もあります。そして休息の話が出てきます。働くことと休息について考えたいと思います。

 

今日はマタイによる福音書11章28~30節をお読みいただきました。当時の人々は生きるために、休みなく働かなければなりませんでした。イエスはいつも貧しく、休みなく働かなければいけない人々を見ていました。そして疲れ果てた動物も見ていたはずです。疲れに押しつぶされそうになる、それは昔の人々に限らず、私たちもまた同じです。イエスは疲れた人々を目の前にして何かを語ろうとしています。

 

29節を見ると「私の軛(くびき)を負え」とあります。“くびき”とは、牛や馬が働くときに身につける道具のことです。軛に様々な農機具を付けることによって、土を耕したり、重いものをひっぱったりことができます。

 

動物にとってはつらい仕事です。そして軛にはよい軛と悪い軛があります。よい軛は力の入りどころにしっかりとかみ合っている軛です。しかし悪いくびきは体に合わず、痛みを生みます。うまく力が入らないのです。動物がその力の本領を発揮するには良い軛が必要です。当時の人々はこの言葉を自分や動物の体験に重ねて納得をしたでしょう。

 

私達もそれぞれにくびきを負う者でしょう。それぞれの人生で重たいものを引いています。イエスが新しい軛を下さるとは、イエスの励ましによって私たちは、本来持っている力を発揮し、前に進むことができるという意味です。自分が力の入る場所を見つけ、自分らしく進めるための助けです。自分に合う生き方のリズムのことです。何かを動かしたい、前に進みたいと思う時に、時にはまったく新しい運び方を示してくださるのが神様です。

 

私たちはどうでしょうか?私たちの人生にもどうしても前に進むことができない時があります。引っ張っても、押しても、すべての力を注いでも動かないことがあるものです。でも、イエスは言います。その方法でどうしてもダメなら、違う方法で前に進めない?ひとつの方法がだめでも、すこし違う方法にしたら前に進めない?そちらの方が軽くない?私たちにそう問いかけています。

 

私はイエスが私に、そして私たちの教会に、新しく前に進む方法を与えてくれると信じています。なかなか前に進まないことを体験しました。でも「何だ、こっちの方が良かったじゃないか(笑)」という方法を神様が示してくださることを信じています。神様がこんなつらい思いをしないで、もっと私たちに合った軽やかに前に進める方法を示してくださる、私はそう信じています。

 

そしてイエスはこの言葉の中で「休ませてあげよう」とも言っています。人間には誰しも、人生の中でもうダメだと心折れる時があるものです。神様はそのとき、今までの軛を変えて、負いやすいものにしてくださいます。「もう少し軽くなる方法で頑張ってごらん」と。それはとても優しい言葉です。でも人生にはどんなに荷物を軽くしても、引けなくなるときがあるものです。力が入らない時があるのです。そんな時にイエスは「私のもとで休ませてあげよう」と言ってくださるお方です。イエスは私たちに優しく「少し軽くしてみる?それでもだめなら休んでみる?」と語りかけています。

 

今日は28節の「休ませる」という言葉、そして29節「安らぎを与える」という言葉に注目をしたいと思います。この言葉はどちらもギリシア語のアナパウオーという言葉で、身体的、内面的な休息を意味します。このアナパウオーという言葉は“アナ”と“パウオー”の合成語です。語源から意味を考えると、アナは下から上へのニュアンスを持ちます。アナがつく言葉はたくさんありますが、例えば立ち上がる、復活する、元の状態に戻す、回復させるという言葉にアナが付きます。いずれも下から上というニュアンスです。

 

アナパウオーのパウオーはどうでしょうか。パウオーには中止させる、制止する、終わる、立ち止まる、待つという意味があります。

 

つまり28節の「休む」29節の「安らぎを与える」と訳されている言葉アナパウオーは“立ち上がるために終わる”“回復させるために一時的に立ち止まって息をつく”という意味です。そこから日本語では「休む」「安らぎを与える」という翻訳が充てられました。日本語の聖書はこのアナパウオーを様々な言葉に翻訳し分けています。例えばあなたは私をアナパウオーしたという時に、聖書では「あなたは私を慰めた」「あなたは私を元気づけた」あるいは「あなたは私を待たせた」などと訳されています。

 

聖書の言う「休む」「安らぎを与える」とは温かい言葉です。それは下から上へとまた起き上がるためにいったん立ち止まること、慰められること、元気が出るまで待つという意味を持っている言葉です。まるで、うつむいていた顔が、ゆっくりと上を向くような言葉です。

 

みなさんは、この「休む」という言葉にどんな風景を思い描きますか?それはいったん立ち止まって、深呼吸をして、気持ちを落ち着けることと言えるでしょう。不安が取り除かれることを時間をかけて待つとも言えるでしょう。それはまた前に進もうと思える時まで待つことと言えるでしょう。イエスはそのように私たちに「休み」の時を与えてくださるお方です。

 

みなさんの人生にはどんな重荷があるでしょうか。みなさんに勧められているのはまず軛を変える事、荷物が軽くなるようにしてみることです。でも、それでもダメな時があるでしょう。軽いからといって毎日引っ張ることができるわけではないでしょう。イエスはそんな時があるのを知っていました。イエスはそれでもだめならアナパウオーしなさいと言います。イエスは「休みなさい」「立ち止まりなさい」「時間をかけて前に進もうと思える時を待ちなさい」と言っています。

 

そうです。神様は、私たちの人生について、ずっと軛を負い続けなさいとは言っていません。時に休み、不安がなくなるまで、また前に進もうと思える時まで休む、神様はそんな時を下さるお方です。神様が私たちに休息を与えてくださるのです。そして私自身も今、立ち止まらなければ前に進めないと気づいています。だから私はこのアナパウオーの休息をしばらく受け取りたいと思っています。そして休む期間にまた、神様が導き、立ち上げて下さる時が来ると信じています。その間神様がこの教会を支えてくださると信じています。

 

私たちはそれぞれの疲れを神様の前に差し出しましょう。きっと神様が良い軛を与えてくださり、思わず笑みがこぼれるほど、重荷が軽くなる経験を与えてくださるでしょう。そして神様は私たちがまた立ち上がることができるように、私たちに休息の時間もまた備えてくださっています。どうしても力ができない時、私たちは勇気を持って休むこともひとつの方法ではないでしょうか?

 

今日の聖書のみ言葉をみなさんはどのように感じたでしょうか?1分間の黙想の時をもちたいと思います。ぜひそれぞれに今日のみ言葉を思いめぐらせてみてください。お祈りします。